とある魔術の禁書目録8 鎌池和馬 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)薔薇のように見目|麗《うるわ》しい姫さま [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから○字下げ] ------------------------------------------------------- [#改ページ] 底本データ 一頁17行 一行42文字 段組1段 [#改ページ] とある魔術の禁書目録8  ここは、学園都市の全女子高生徒が羨望の眼差しを注ぐ名門女子校・|常盤台《ときわだい》中学。もちろん通う生徒は全員“お嬢様”である。  その“お嬢様”のひとり、|御坂美琴《おさかみこと》が体育の授業後に、汗をかいた身体を洗おうとシャワーを浴びていると、隣から一人の少女が声をかけてきた。  |白井黒子《しろいくろこ》。学園都市の治安を守る『|風紀委員《ジヤツジメント》』であり、|空間移動能力《テレポート》を持つ|大能力者《レペル4》の少女。彼女は、美琴を放課後のショッピングに誘う。  ——それが、黒子の長い長い一日の始まりになった。お姉様・御坂美琴の本当の姿を知る、長い長い一日の……。  お姉様と“あの殿方”が交差するとき、白井黒子の物語が始まるのですの!? [#改ページ] 鎌池和馬 八巻目です。主人公はいつもと違います。それ以外にも、たくさんのレギュラーキャラが事件解決に挑むにぎやかなお話になったなと思います。少々キャラ達の人間関係がすれ違っている感じが愉快ですが。 イラスト:|灰村《はいむら》キヨタカ 1973年生まれ。遂にHDDレコーダーを購入しました。そして録画ジャンル比率は「映画3・特撮1・アニメ6」。これで自分も立派にオタクですかそうですか。 [#改ページ]   とある魔術の禁書目録8 [#改ページ]    c o n t e n t s      序 章 五本の指の一本 A_TOKIWA-DAI's_World.    第一章 彼女達の放課後 After_Scool_of_Angels.    第二章 向き合う乙女達 Space_and_Point.    第三章 残骸が秘める光 “Remnant”    第四章 決着をつける者 Break_or_Crash?    終 章 それぞれの日々 One_Place,One_scene. [#改ページ]    序 章 五本の指の一本  A_TOKIWA-DAI's_World.  |常盤台《ときわだい》中学。  東京の三分の一の広さを誇る超能力開発機関『学園都市』の中でも五本の指に入ると言われる名門であり、同時に世界有数のお嬢様《じようさま》学校だ。その入学条件は極めて厳しく、某国の王族の娘をあっさり不合格にして国際問題に発展しそうになった逸話すら存在する。  学校の|敷地《しきち》は|隣接《りんせつ》する|他《ほか》の四つのお嬢様学校と共用になっている。土地不足という訳ではなく、互いに費用を畠し合って強固なセキュリティ体制を作るためのものだ。  並の学校の一五倍以上の敷地を持つ共用地帯、ここ[#「ここ」に傍点]は『|学舎《まなびや》の|園《その》言うが広大なイメージはない。ただでさえ特殊な|時間割り《カリキユラム》に使う実験施設の増設が多く、さらには独自技術の|漏洩《ろうえい》を防ぐために、能力開発用機材は一切外注せずに『学舎の園』内部で生産しているので、その製造・販売施設も少なくないからだ。各施設は外観だけは洋風で統一されていて、まるで地中海に面した小さな街を丸ごと持ってきたような空間が出来上がっている。  何しろ『学舎の園』の中では道路標識や信号機のデザインまで外とは違うぐらいなのだ。 「石畳の道路に大理石の建物……非効率の極みですわねー」  九月一四日。残暑厳しい午後の校庭の真ん中で、陸上選手のようなランニングと短パンを着 たツインテールの少女、|白井黒子《しらいくろこ》は遠く離れた校舎を眺めつつ、暑さにまいった口調で|呟《つぶや》いた。  校庭は|大英《だいえい》博物館前広場のような石畳だが、その表面を専門の測量士が測っても寸分の凹凸や傾きすら検出できないだろう。そして素材は単なる石ではない。肉眼では区別がつかないものの、電子顕微鏡で調べれば学園都市製の特殊建材だというのが分かるはずだ。  ピカピカに|磨《みが》かれたようなその校庭には、汚れの一つもない。  学校の体育などで良く使う、トラックにラインを引くための白い粉末すらも。  今は授業中で能力測定の競技中なのだが、そのためのラインは別のもので引かれていた。  それは光の線だった。校庭には何千万本もの光ファイバーが電直に埋め込まれていて、それらが放つ光点が集まり、電光掲示板のように光のラインを自在に描くのだ。  光線は今、白井を囲む小さな円と、その円を中心とした巨大な扇を形作っている。  砲丸投げのものと良く似ていた。ただし、砲丸投げに比べて扇の角度が圧倒的に狭い。  そして全く同じ形状のラインが白井の横一列にずらっと並び、やはり体操服を着た少女|達《たち》がその円の中に入っている。まるでバッティングセンターのような構図だ。  白井の能力は『|空間移動《テレポート》』である。簡単に言えば、手元にある物体(自分の体を含む)を、三次元的な空間を無視して|一瞬《いつしゆん》で遠くへ飛ばす能力だ。一応、|皮膚《ひふ》上に触れている物体でなければならない、という制限もあるが。 『|空間移動《テレポート》』のレベル認定は、三つの条件が深く|関《かか》わる。物体を飛ばす際の『大きさ(質量)』『距離』『正確さ』である。それを調べる測定方法の一つに、このような砲丸投げに近いスタイルがあるという訳だ。ただの砲丸投げとは異なり、単に遠くへ飛ばすのではなく正確なポイントへ落とすという要素も加わってくる。  ちなみに|常盤台《ときわだい》中学には、|空間移動《テレポート》能力者は|白井《しらい》しかいない。周りにいる少女|達《たち》は、白井と は違う『飛び道具タイプ』の能力者だ。  ぼてっ、という感じに、白井の視界のずっと先に何かが落ちている。 彼女が先ほど|空間移動《テレポート》を使って飛ばした、砂を詰め込んだ重さ一二〇キロの布袋だ。  ややあって、白井の足元の地面を、新たな光の文字が流れていく。 『記録・七八メートルニ三センチ・指定距離との誤差五四センチ・総合評価「5」』  はぁ、と文字を見た少女はツインテールを左右に振って、 「あー、絶賛大不調ですの……日本語おかしくなるぐらい。大きくて重たいものを遠くに飛ばすの苦手なんですのよー。五〇メートル前後とかならミリ単位で修正できますのに」  元々、彼女の能力の限界値は飛距離が八一・五メートル、質量が一三〇・七キログラムであるが、この能力において、飛距離と質量の間に因果関係はない。質量を小さくしてもその分、飛距離が伸びる訳ではないのだ。逆に言えばどんな物体を飛ばすにしても、飛距離の限界に近いラインを|狙《ねら》うと、どうしても精度が落ちる。  加えて精神状態によって白井の能力値は激変する。最初から限界ギリギリに近い注文を、この暑さの中でこなせと言われても精度が落ちるのは当たり前だろう。  そこで言い訳を考えるからいつまで|経《た》っても|超能力《レペル5》になれませんのよー、と白井が|自嘲《じちよう》気味な重たいため息をついていると、ふと|隣《となり》の砲丸投げ用のサークルから|馬鹿《ばか》笑いが飛んできた。 「うっふっふ。あら白井さん、機械が|弾《はじ》き出した数字に一喜一憂しているようでは己の器が知れてしまってよ? もっと確固たる基準を自分の中に|見出《みいだ》せないようでは……ぷぷっ」  白井はうんざりしたように隣を見る。  必要以上にサラサラ過ぎるのが逆に不自然な髪。白井と同じランニングに短パンの体操服を着ているくせに、右手に|扇子《せんす》。その豪華な扇子で口元を隠して笑っているのは、白井|黒子《くろこ》の一つ年上の(選択授業中は学年の壁は取っ払われるのである)|婚后光子《こんこうみつこ》だ。  婚后は|大能力《レペル4》の|空力使《エアロハンド》いで、物体に風の『噴射点』を作り、ミサイルのように飛ばす事を得意とするトンデモ発射場ガールである。 「……人の落ち込みっぷりを見て笑いが止まらない時点で|貴女《あなた》の器の小ささが|大暴露《だいばくろ》されてま すのよ」  言いながら、白井はぷいっと顔を|逸《そ》らす。 「あらまぁ、誤差五四センチさんは|流石《さすが》に言う事が小さくって。時に|白井《しらい》さん、最近わたくしが思うに|貴女《あなた》の能力のたるみは……って、あら、無視かしら? 白井さん、良い風を送って差し上げますからこちらをご覧になって?」  |扇子《せんす》をパタパタと振ってくる|婚后《ごんこう》に白井は嫌々視線を送る。婚后は気を良くして、甘ったるい|匂《にお》いのついた扇子をばっさばっさと|扇《あお》ぎながら、 「話を戻しますけど、貴女の能力のたるみは、貴女自身が必要のない部分の空間把握処理までしようとする所にあるのではなくて? もっと計算式をタイトにすればよろしいのに」 「……余計なお世話ですのよ。大体、三次元と一一次元では把握法が根本的に違いますのって ば」 「いえいえ、お世話をするのはこれから。わたくし、今度『派閥』を作ってみようかと思っていてよ。白井さんもお暇ならどうぞというか無理にでも暇を作って是非といった所ですけど、どうでして? 勉強会みたいなものだと思って参加してみなさいな。|他《ほか》の能力者の制御法を知る事で己の計算式の発想のヒントになるかもしれなくてよ?」  はあ、と白井は|眉《まゆ》をひそめた。  派閥。  堅苦しい言葉に聞こえるが、ようは遊びのグループみたいなものだ。  ただし、ここは|常盤台《ときわだい》中学。『義務教育終了時までに、世界で通用する人材を育てる事』を日標に掲げるこの学校では、在学時からあらゆる方面の研究分野などで|活躍《かつやく》し、名前を残す学生も少なくない。  同じ目的を持つ者同士を学校内で集め、学校から設備を借りたり資金を調達したりして、果ては全国レベルで名前を残す……となると、派閥は学校の部活にも似た性質を持つかもしれない。  大きな派閥は、人脈・金脈・独自の知識なども収めており、第一線で活躍する生徒|達《たち》の多くはそれらの力を借りて功績をあげている。  中には『派閥』など組まなくても、個人で活躍できる学生もいるのだが、しかし施設の貸し出しや資金の調達などの面では、派閥に所属し、そこで書類を作成した方が学校に申請しやすい。人数が多く、功績を残した派閥ほど学校の中での地位や力も増す。この辺りは普通の部活と変わらないだろう。  だからこそ大きな派閥は大きな力を持つ事になる。常盤台中学内はおろか、学校の外にまで。大きな派閥に入るだけで一種のステータスとなるのだから、その派閥の創設者ともなれば得られる名声は並のものではない。  さらに、|拳銃《けんじゆう》を軽く|凌駕《りようが》する能力を持ち、各界に|繋《つな》がりを持つお嬢様《じようさま》達が徒党を組むとなれば、派閥は別の意味で、もっと直接的な『力』を得る。一人一人が私事で使うだけでも危険な『力』を、いくつも束ねて組織的に使えば、周囲が|被《こうむ》るダメージも|馬鹿《ばか》にならないのだ。  なので、 「やめておいた方が無難ですの。|婚后《こんごう》さん、|貴女《あなた》が『派閥』を作った所で二分で|壊滅《かいめつ》させられますわよ」 「な……」 「分かりません? 貴女に危険な『派閥』を作るほどの力があれば、すでに貴女は|他《ほか》の『派閥』から|潰《つぶ》されているはずですの。それが何の|音沙汰《おとさた》もない時点で、|彼我《ひが》の実力差に気づきなさい」 「そ、そんな事はなくってよ! こ、婚后の家柄と、わたくし単体の能力値が合わされば、たとえどんな『派閥』でも正面から打ち破ってみせて……ッ!」  婚后|光子《みつこ》は顔を真っ赤にして|憤《いきどお》ったが、直後にその顔は真っ青に切り替わっていた。  ゴドン!! と。  校舎と言わず、体育館と言わず、校庭と言わず、|敷地《しきち》のあらゆる物が突然の|爆破震動《ぼくはしんどう》に、ぎしぎしみしみしと揺さぶられたからだ。  ここからでは校舎が壁になって見えないが、その裏手にはプールがある。  爆発音はそこから。  間に校舎を挟んでいるはずなのに、水滴が細かい|霧《きり》のように婚后の|火照《ほて》った|頬《ほお》に当たる。体の熱が、急速に奪われていく。盛大な爆破によってプールの水がここまで飛んできたのだ。 「……なっ……何よ。あれ」  婚后の顔に水滴が当たり、|驚《おどろ》いた彼女はまるで舌で|舐《な》められたように、ぶるりと|震《ふる》えた。それから頬に手をやり、空を眺め、最後に校舎へ目を向ける。 「そうですわね。貴女は二学期からの転入組ですからご存知ないかもしれませんが、あれが|常盤台《ときわだい》中学のエースですのよ」  その声に、婚后は思い出す。  校舎裏のプールには、一人の少女が立っているはずだ。  |白井《しらい》や婚后と同じ飛び道具タイプの能力を持ちながら、そのあまりの破壊力から通常の測定方法が使えないと常盤台中学の教員|達《たち》の手を焼かせた、絶大なる能力者。  専用の特殊|時間割《カリキユラム》りを学校側に用意させ、プールに|溜《た》めた|膨大《ぽうだい》な水を使って威力を削らなければ、測定機械ごと校舎を全壊しかねないほどの、常盤台中学でも二人しかいない|超能力者《レペル5》の一人。  |超電磁砲《レールガン》の|御坂美琴《みさかみこと》。  どこの『派閥』にも属する事なく、|誰《だれ》とでも分け隔てなく接する者。  白井|黒子《くろこ》は己が|憧《あこが》れているお姉様の姿を浮かべながら、しかし|呆《あき》れたように聞く。 「婚后さん。貴女、本気であの馬鹿げた一撃を真正面から受ける覚悟はありますの?」  無邪気な問いかけ。  |婚后光子《こんこうみつこ》は、答えも返せずに顔を青くする。 「確かに派閥を作り、その長になれれば|常盤台《ときわだい》中学全体に大きな|影響力《えいきようりよく》を持てるでしょうけど。|貴女《あなた》が|傍若無人《ぽうじやくぶじん》な振る舞いをしたいがためだけに派閥を作ろうとすれば、即座にお姉様は貴女を止めに参りますわよ?」  声と同時に、|応《こた》えるようにもう一度|爆撃音《ばくげきおん》が|炸裂《さくれつ》した。 [#改ページ]    第一章 彼女達の放課後 After_Scool_of_Angels.      1 「という事があったんですのよ、お姉様」  |常盤台《ときわだい》中学には三つのシャワールームが存在する。  その内の一つ——主に放課後、学校から街へ出る前に身だしなみを整えるための校舎付属シャワールーム———『|帰様《かえりさま》の|浴院《よくいん》』と呼ばれるその部屋で、白い湯気とほど良い温水を浴びながら|白井黒子《しらいくろこ》は告げた。|華奢《きやしや》な体を伝う|雫《しずく》が、彼女の胸元にへばりついていた|石鹸《せつけん》の泡をお|腹《なか》の方へと押し下げていく。 「あー、|水飛沫《みずしぶき》ってそっちまで飛んでいってたんだ。っつか、あの程度でゴチャゴチャ|騒《さわ》がれても実感|湧《わ》かないわね。あれでも目一杯セーブしてんのよ? 私の本気の|一撃《いちげき》の威力を、あんなプールで殺せるはずがないでしよが」  仕切りを挟んだ向こうから|美琴《みこと》のくだらなそうな声が返ってくる。教室五つ分ほどの広さのシャワールームは、九〇個近くあるシャワーの蛇ロ一つ一つを囲むように、白い仕切りとスイングドアが取り付けられている。ただし、仕切りはともかく|曇《くも》りガラス状のスイングドアは平均的身長の中学生の|太股《ふともも》から胸上までを隠す程度の大きさしかない。極端に背が高い女の子だ こ規格が合わず、ちょっと身を|屈《かが》めて使わないとあちこちが見えてしまって大変らしい。 「大体、『止める』っつっても言葉で解決する努力はするわよ。その程度の問題ならね[#「その程度の問題ならね」に傍点]。私は相手を選んで攻撃方法変えるぐらいの分別はついてるつもりなんだけどなあ。どうせあんなの安心してぶっ放せる相手なんてあの|馬鹿《ばか》しかいないし」  その語尾がやや|安堵《あんど》したのを感じ取り、白井の|眉《まゆ》がピクリと動く。ぬるま湯に流され、お腹から太股へと流れていく白い泡の感触にややムズムズしながらも、彼女は思う。 (あの馬鹿。また、あの馬鹿の話ですの……) ピクピクと片方の眉だけを動かす白井は、スイングドアの上部に手をやる。そこにはツインテールを束ねるための細いリボンが二本ある。  白井はその内の一本をおもむろに床に落とす。大理石の白い床にはシャワーが作る温水の|水溜《みずたま》りがあり、リボンはそこに落ちると、|薄《うす》いお湯の膜の流れに乗って、仕切りの|隙間《すきま》から|隣《となり》のシャワーエリアへと流れていく。 「ああっ、なんて|粗相《そそう》を! わたくしのリボンが禁断のお姉様エリアへ!」 「ハイわざとらしく|空間移動《テレポート》でこっちへ突撃しようとしない!」  |空間移動《テレポート》の寸前で|美琴《みこと》の大声と共に仕切りがバンと向こうから強く|叩《たた》かれた。|他《ほか》のシャワーエリアを使っている女子生徒|達《たち》のおしゃべりが、|驚《おどろ》きで|一瞬《いつしゆん》だけ止まる。  音と|衝撃《しようげき》で|完壁《かんぺき》にタイミングを外され、|白井《しらい》は|空間移動《テレポート》を|失敗《キヤンセル》させられた。彼女が能力を発動する時には、感覚として三次元的に|捉《とら》えているこの世界を二次元上の埋論値に置き換え、再把握する必要がある。そのため計算が極端に面倒で、急な|焦《あせ》りや驚きなどで力が働かなくなる事もあるのだ。 「うふふ。打ち合わせもしてないのにこのジャスト迎撃。これはつまりわたくしとお姉様はナチュラルに呼吸が合わさるほど体の相性が良いという証明ですの。うふふ。うふふふふふ!!」 「気持ちが悪いから反応したくないんだけど、一応ほら、リボン」  仕切りの向こうから、美琴の|濡《ぬ》れた細い手がにゅっと出てきた。その指先に|絡《から》まるように、お湯の|染《し》みたリボンがある。白井は礼を言ってリボンを受け取ると、その細い布帯はわずかに温かかった。  白井は自分の体に、上から下へとゆっくり指を|這《は》わせ、しぶとく残った泡を落としていくと、シャワーの蛇口をひねってお湯を止めて、 「そういえばお姉様。今日の放課後って予定あります?」  白井が|隣《となり》の仕切りへ振り返ると、|鎖骨《さこつ》から胸へ流れていたぬるま湯の水滴が散った。 「あるわよー。三六五日で昼寝が」  美琴の答えはぞんざいだ。携帯用のお|風呂《ふろ》セットからシャンプーのミニボトルでも|漁《あき》っているのか、ごそごそという音が聞こえる。 「本当にそうでしたら寝込みを|襲《おそ》い放題ですのに……」 「リアルに残念そうな吐息はやめてね|黒子《くろこ》、本気で寒気がするから。で、放課後、私になんか用事あんの?」  くしゃくしゃと泡を立てる音が聞こえてくる。シャンプーの甘い|匂《にお》いが白井の鼻につく。仕切りの向こうで、湯量が増えたのか、シャワーの音がやや大きくなる。 「いえ、用事というほどじゃありませんのよ」  白井は仕切りに背中を預け、 「ですけど、その、たまには、ですわ。たまには、お姉様と|一緒《いつしよ》にお買い物したり、ケーキ食ベたりしたいかなーって。ここ最近は|風紀委員《ジヤツジメント》の仕事の方も忙しくて何かと二人で遊びに行く機会もなかなか取れませんでしたし、正直に言いますとわたくし黒子は最近少し寂しいかなあって。ほら、お姉様だって、先日からアクセサリーを探していると言ってましたし」 「黒子……」  と、仕切り越しの美琴の声色がやや|労《いた》わるように変わっていく。(け、|健気《けなげ》! 今日の黒子は健気で押しますわ! そして本人は否定してるけど実は保護欲全開なお姉様の腕の中で甘えまくる所存ですの。うっふっふ、えっへっへっあっはーっ!!)  仕切りがあって|美琴《みこと》に見えないのを良い事に山賊みたいな笑みを浮かべる|白井黒子《しらいくろこ》。そんな様子は|露《つゆ》知らず、美琴は自分の後輩に優しく語りかける。 「アンタ、毎日毎日放課後の|風紀委員《ジヤツジメント》の仕事の後に、スイーツショップなんかに寄ってバクバク食べてるから、どれだけダイエットで苦労してもお|腹《なか》の下が引っ込まないんじゃないの?」  直後。  白井黒子は山賊の笑みを浮かべたまま、|空間移動《テレポート》で|御坂《みさか》美琴の元へ|突撃《とつげき》した。  より正確な移動先は美琴の頭上斜め上。  女には、負けると分かっていてもドロップキックしなくてはならない時がある。      2  五つのお嬢様《じようさま》学校が作る共用地帯『|学舎《まなびや》の|園《その》』は極めて小さな街だ。  たとえはやや微妙だが、在日米軍基地のようなものだと白井は考えている。大きな|柵《さく》は部外者を寄せ付けず、|敷地《しきち》の中には居住区も実験施設もあり、しかも喫茶店や洋服店といった生活に必要な店舗まで|揃《そろ》っている。  そんな『必要なものを必要なだけ詰め込んだ街』を白井と美琴は歩いていた。  柵で囲われた|閉鎖《へいさ》空間のはずだが、そこには女性運転手が操るバスも走っている。雑多に|溢《あふ》 れる学生|達《たち》は皆五種類の制服のどれかを身に着けていて、しかも少女しかいない。ある種、異様な光景とも言える『|学舎《まなびゃ》の|園《その》』は、地中海に面した石畳と白い建物の多い古い街並みに似ている。建物は洋館に近いデザインだが、三角形の屋根を無理に平らにしたような、四角形のシルエットが多い。雨の少ない地方の造形だ。現代的な|建物《ビル》を、|敢《あ》えて昔の装飾にアレンジしたようにも見える。  だが、西洋圏の街にしては足りないものが二つある。  一つは教会。  そしてもう一つは人間をモデルにした彫刻。  前者は説明するまでもなく、後者も、大抵は宗教的な偉人・聖人がモデルであるからだ。  それらを廃されたこの街は、洋風であっても洋式ではない。通常、洋式の街並みとは宗教的施設や広場を中心に発展していくものなのだから。  ここではその代わりを|担《にな》うのが、学校だ。  空から見れば良く分かるだろう。五つの学校が細い道を束ね、|蜘蛛《くも》の巣のように張り巡らせている。お互いの蜘蛛の巣は複雑に|絡《から》み合い、無数の交差点を築き上げる。  |故《ゆえ》に、『学舎の園』の道路幅は決して広くない。元々限られた土地に次々と実験施設を増築したおかげで、その|隙間《すきま》を|縫《ぬ》って細い道が迷路のように走り回っているのだ。  さて。  時は放課後。場所は奇妙な街の中。二人の少女は肩を並べて歩いている。  |白井黒子《しらいくろこ》、|御坂美琴《みさかみこと》。  学園都市の少女達の|憧《あこが》れの的、|常盤台《ときわだい》中学のお嬢様《じようさま》達だが、|何故《なぜ》か美琴と白井の髪は、そ 恥それボサボサに乱れまくっている。|乱闘《らんとう》後のちょっとした弊害だ。  美琴はぐったりしながら、片手で髪を直しつつ、 「……アンタ、いくら何でも人様の顔を目掛けて全裸でドロップキックとかってないでしよ。あまりにも開けっ広げで逆に凍りついたわよ、マジで」 「うふふ。最初からわたくしには分かっていましたのよお姉様。最強クラスの|電撃《でんげき》使いに正面びら挑むなど|馬鹿《ばか》らしいとはいえ、水気の多いシャワールームならば周りへの漏電に|配慮《はいりよ》して電撃攻撃は使えないって。ただ最大の誤算はお姉様が素手でもダーティな戦いが可能だったという事でしたわね!」  最後にヤケクソっぼく|締《し》めくくって白井は悔しそうに苦く笑う。とてもではないが、『義務教育期間中に世界で|活躍《かつやく》する人材を作り上げる』という常盤台中学創設理念の下にいる人間とは思えない。  |薄《うす》っぺらなカバンをぶんぶん振り回して開き直りっぽい笑いを続ける白井に、美琴は疲れた目を向けながら、 「でもアンタ、ダイエットとかって本気で取り組んでたんだ」 「むしろ気になさらないお姉様が|何故《なぜ》そんなにも|完壁《かんべき》なお姿なのかと。ハッ! まさか体内の電気を操って効率良く脂肪を燃焼させるお姉様独自の裏技が———ッ!?」 「そんなもんないから壮絶な|瞳《ひとみ》でこっち見るな。だからないって言ってんでしょ! 両手で私り肩を|掴《つか》んで必死に揺さぶるんじゃないわよ!気持ちは分からんでもないけど、ウチの学校ってそういうの禁じてなかったっけ?」  無理なダイエットは成長の妨げとなり、それが能力開発に|響《ひび》く危険性があるとして、そうした事を禁じている学校もある。  |白井《しらい》は振り回していたカバンの動きを止めると、ため息混じりで、 「確かに能力も重要ですけれど、それで女を捨てるのもどうかと思いますの。わたくし、脂肪だらけの人間ワープ装置になんかなりたくありませんので」 「でもダイエットすると始めになくなるのは胸の脂肪らしいわよ。あと、やりすぎると肌の|艶《つや》を作っている油分が抜けてカサカサになったりとか、髪に栄養がいかなくなって抜けやすくなりたり」 「あーっ! 聞きたくありませんのそういうネガティブ豆知識!」  白井は両耳に手を当てて首をぶんぶん横に振る。  普段《ふだん》の学園都市の中なら奇行として|捉《とら》えられるかもしれないが、会話の内容が耳に届く|他《ほか》の女子生徒にとっても|他人事《ひとごと》ではないためか奇異の目を向けたりはしない。中には指先で|摘《つま》んでいたフライドポテトを引きつった笑みと共に容器に戻す少女までいた。  |美琴《みこと》も普段の街中で体重や化粧についての話題は振らないだろうと白井は思う。なんだかんだで男の視線は気になるのだ。その点で言うと、『|学舎《まなびや》の|園《その》』は感覚的にはまだ女子校の中だ。  二人は作られた洋風の街を歩く。 『学舎の園』にはデパートやショッピングセンターのような大型店舗は存在しない。『体操服』や『文房具』など、|時間割《カリキユラム》りや学園生活に必要な物ができるごとに、必要な物だけを販売するための売店が増えていくため、一品一品を専門に取り扱う小店舗がぎつしりと集まるのだ。例外的に巨大な建築物は研究機関のものである。  迷路のように入り組んだ小道が|全《すべ》て商店街と化している。  白井はその中から一枚の看板を見つけると、美琴の手を引っ張って店の中に入る。  美琴は店の中に入ってから、やや|呆《あき》れたようなため息をついて、 「用のある店って、ここの事だったのね」 「あら。生活必需品ですわよ」  白井はごく当然のように答えた。  ランジェリーショップである。  こぢんまりとした店舗は|骨董品《こつとうひん》か|土産物《みやげもの》でも扱うような、暗い色合いの木材を内装のメインにしている。ウィンドウから差し込むオレンジ色の夕日と、|洋灯《ランプ》の飾りをつけた電球がそれぞれ柔らかい光を店内に満たしていて、全体的に落ち着ける空間作りに気を配っているのが良く分かる。  しかし、飾られているのは色とりどりの女性下着であり、そのレースや何やらの明るい色彩がいまいち落ち着いた店舗と|噛《か》み合っていない。逆にわざと浮かせる事で、客に商品の印象を強く|叩《たた》きつける|狙《ねら》いがあるのかもしれないが。 「なんつーかね、やっぱ知り合いと|一緒《いつしよ》に来るべきじゃないような気がするんだけどなあ。自分が何|穿《は》いてるか、そのセンスを見せびらかしてるようなもんだし」 「何を今さら。わたくし|達《たち》の間にそんな気遣いは無用ですわ。|黒子《くろこ》は知っていますのよ、実はお姉様はパステル調色彩の子供っぽい下着を偏愛しているのだと痛たたたっ! 唐突に耳を引っ張らないでくださいですのお姉様!」 「……|空間移動《テレポート》ってホントに厄介な能力よねー黒子? 毎日どこで私の下着をチェックしてるかとっとと吐け」 「べ、別に良いじゃありませんのお姉様。お姉様にしたって毎日わたくしの下着をご覧になっているでしょう?」 「見たくて見てる訳じゃないわよ! アンタの寝間着がすけすけネグリジェなのがいけないんでしょ! っつかアンタの場合はわざと見せびらかして喜んでる節があるし!」 「あら。お姉様にしてもパステル調色彩の子供っぽいぶかぶかパジャマを偏愛するのはいかがなものかと痛っ! 今年のお姉様のブームは女王様ですの痛たたっ!?」  右耳を|美琴《みこと》に引っ張られる|白井《しらい》はしかし|嬉《うれ》しそうな笑顔。  これだけ|騒《さわ》いでも彼女達に周囲の視線が集中する事はない。|他《ほか》の客は他のお嬢様《じようさま》学校の少女達が三人ほど、カウンターには何十年も前からセットで座っているような女店主兼レース職人のおばあさんが一人。|誰《だれ》も彼女達の騒ぎを気にしている様子もなく、女店主に至っては英字新聞を広げている。女の子だらけの『|学舎《まなびや》の|園《その》』ではこの程度のキーキー声は騒ぎの内にも入らないようだ。 「あ、お姉様。あちらでディスプレイされてる上下セットなどお姉様に似合いそうじゃありません?」 「耳引っ張られながら冷静にオススメすな。———って、うわ!? 何よあの表面八〇%以上が透けたレースの下着。ウケ狙いとしか思えないチョイスなんだけど」 「しかしこちらは下着専門店ですのでむしろ専門的な下着を|揃《そろ》えてある方が自然ではありませんの?」 「……アンタ、何の専門家なのよ黒子」 「もちろんお姉様の|頬《ほお》を|羞恥《しゆうち》に染めさせる事を専門に幅広く活動しており痛っ!! ……い、いけませんわ。こんな往来でわたくし何だかぞくぞくしてきますの。ふ、ふふ。白昼堂々とお姉様に体の一部を|摘《つま》まれて|悶《もだ》えるのもまた一興ですわね」 「|黒子《くろこ》? これ以上耳を引っ張らせたら|千切《ちぎ》れて大惨劇になるわよ?」  にこにこと|美琴《みこと》は|微笑《ほほえ》みながら|白井《しらい》の耳を伸ばしていたが、白井は見逃さなかった。先ほど美琴が自分のお勧めしたレースの上下に目をやった時に、顔を真っ赤にして慌てて視線を|逸《そ》らしたのを。白井は|差恥心《しゆうちしん》でいっぱいの美琴の横顔を見て大層幸せそうな笑みを浮かべていたが、ふと思い直すと美琴がいつの間にかドキッとするほど真剣な顔で別の物を見ている事に気づく。 「?」  白井はちょっと気になって、美琴の視線を目で追いかける。  道路に面したウィンドウの向こうにある外の世界は夕暮れに染まっていて、遠くの空をゆっくりと飛行船が飛んでいた。それは洋風の古い街並みを模したこの景色の中で、妙に浮いて見える。飛行船のお|腹《なか》には大画面がくっついていて、そこに今日の学園都市ニュースが流されている。  こちらから見える大きな見出しは米国のスペースシャトルの打ち上げが無事に成功したというものだ。様々な角度のカメラで撮られたシャトル発射のVTRが、何度も何度も繰り返して流されている。  美琴は下着そっちのけで、真剣な顔でいつまでもニュースを|観《み》ていたが、|隣《となり》にいる白井としては面白くないので、 「最近多いですわよね。確かフランスとロシア、スペインも先週打ち上げましたし。今月はまだ中国とパキスタンも予定に入っているんでしょう? 第三種経済の授業で、宇宙事業の損得について語ってる先生の脱線話にしょっちゅう出てきますけど」  そんな話題を振りながら、美琴の耳たぶを指先で軽く|突《つつ》いてみる。 「ぶわっ! な、何よ黒子!」美琴は慌てて白井の方に向き直り、「ま、まあ、学園都市も先月末に打ち上げてるけど。っつか、また|無駄《むだ》な選択授業取ってるわねアンタ。ってだから人の耳たぶをつつくな! いや、ツツツーって|這《は》わせるのはもっとムカつくから!!」  |常盤台《ときわだい》中学は義務教育期間中に、あらゆる分野において世界の上に立てる人材を作り上げる英才教育機関だ。従って、一般的な中学校の教科書内容とは授業の出来が違う。 「昔は、……大型の発射場を用いる多段式ロケットやスペースシャトルは、その技術と資金の向面から打ち上げ可能な国や組織が限定されていたそうでしたけど、確か今はもう違うって話てしたわよね。……レポートの期限が週末までなので、ちょうどその辺りを調べているんです けれど……」  白井は言いながら、さりげなく美琴に黒のレースの上下をお勧めし、 「第三種経済なんて使えないと思うんだけどなあ。まあレポートがあるってんなら一応教えとくけど。|現在《いま》じゃ飛行機の下部に取り付けたロケットを、空中からそのまま発射する[#「空中からそのまま発射する」に傍点]新技術の登場で随分と垣根は低くなってんの。新世紀に入って開発されたヤツだから、古い参考書には載ってないわよ。レポートの資料集めの時は気をつけときなさい」  |美琴《みこと》は表情を変えずに黒のレースを|白井《しらい》へ|叩《たた》き返しつつ、ため息を一つ。それから淡い黄色 のショーツにちょっと興味を示したようだが、 「お、お姉様。|流石《さすが》にそこまで子供っぽいと一同|揃《そろ》って引きますわよ」  何だと、という目で美琴は|睨《にら》んでくるが、白井としてはここだけは|譲《ゆず》れない。引きつった白井の顔に何かを感じ取ったのか、美琴はしぶしぶといった感じで|他《ほか》の下着に目を向ける。が、そちらにしても、白井から見れば子供らしい事この上ない。 「はあ……。それにしても、参考書全体の常識が変わると資料がこっちゃになって面倒な事になりそうですわね。古い参考書の方でないと載っていない情報とかもありますから簡単に切り捨てられませんし」 「その情報の新旧正誤を見分ける力を養うのが勉強ってもんでしょうが。大体、そんなの言ってたらこれからの宇宙事業は荒れるから暗記は面倒になるわよ。民間の参入で業界が活性化したり、新しい記録がバンバン出てきて年表が書き換えられていったり———って、ぶっ? ちよ、ちょっと|黒子《くろこ》! それはいくら何でも……ッ!!」  美琴は白井が手に取っている下着の、|悪趣味《あくしゆみ》なまでの防御力の低さに思わず吹き出した。 「??? お姉様、どうかしましたの?」 「い、いや、良いのよ別に。下着のセンスなんて人それぞれだし。ただし|寮監《りようかん》とか生活指導には見つからないようにね」美琴は白井の持つ壮絶な下着から目を|逸《そ》らしつつ、深呼吸して、 「ま、まあ、難しい所よね。元から発射場を持ってるトコは新参者に宇宙開発市場を荒らされたくない。新技術のトコは旧来のロケットやシャトルよりも安価で確実性がある事を見せつけたい。旧技術と新技術、どっちかが支持されればもう片方は落ち目になる。だから自分|達《たち》の技術の|信頼度《しんらいど》を証明するためにバカスカ打ち上げて周りのスポンサーにアピールしてるみたいだけど」  美琴は白井の持っ下着から視線を外したまま、しかしチラチラと時々目線をそちらへ戻す。 『それなら裸の方がまだマシなんじゃない……?』という|呟《つぶや》きが耐え切れずに口から小さくこばれていた。 「??? さっきから何を不自然に目を逸らしていますの?」白井は好みの下着を数枚取ったまま、小さく首を|傾《かし》げつつ、「学園都市は例外的に両方の技術を持っているから問題なさそうですし、一番のスポンサーである『日本政府』との取り引きを独占してるから気楽そうですけど……、っつ」  言いかけた所で、白井は自分の口を押さえた。  唇がわずかに切れた感触がする。美琴はそんな後輩の様子を眺めると、 「リップつけたら? 空調で結構乾くもんよ」 「い、いえ。それが昨日から切らしてますの」 |常盤台《ときわだい》中学では基本的に化粧は禁じられている。しかも規則はやたら厳しく、あからさまな口紅やマスカラなどはもちろん、実用本位の薬用リップや化粧の|範疇《はんちゅう》に当てはまるか疑問なハンドクリームすら対象に入ってしまう。  なので、『常人には見分けが付かないほど淡く|施《ほどこ》す』のが彼女|達《たち》の伝統と化していた。顔を近づけてみれば分かるのだが、|美琴《みこと》と|白井《しらい》の唇はほんのわずかに|彩《いうど》りや光沢が異なる。元は必要に迫られたための妥協策だったのだが、今ではこのスタイルは『|淑女の嗜み《レデイライクマナー》』とかいう|謎《なぞ》の言葉と共に|常盤台《ときわだい》中学の内外でちょっとしたブームになりつつあるらしい。  んー、と美琴は自分のカバンをごそごそと|漁《あさ》ると、スティック状の薬用リップを取り出し、 「じゃ、後でコスメショップでも寄ってそっちも|揃《そろ》えるとして、とりあえず場|繋《つな》ぎ的に使っとく?」 「!?」  ビクゥ! と白井|黒子《くろこ》は何気なく差し出された色気も何もない薬用リップを眺める。  少女は両目を大きく見開くと、わなわなと全身を|震《ふる》わせて、 (り、リップ。おね、お姉様の……。お姉様の、お姉様の、お姉様の唇に毎日接触してる素敵リップ!! あ、ああ。黒子は、ああ、黒子は、黒子はァァああああああああああ!!) 「え、なに? ちょ、何でいきなりリップの中身を最大まで伸ばして……って待て待て待ちなさいよ黒子! どうして口を大きく開けてかぶりつこうとしてんのアンタ!!」 「ハッ!! ……あ、あまりに気が動転して思わず残さずいただいてしまおうかと」 「アンタがどういう意図を持ってたか大体想像がついたけど、これ三個一パックの新品だから。 っつか、使いかけのリップなんて塗りたくないでしょ普通」 「えっ……新品? チッ。……がっくりですわ。あっ、しかし! それならわたくしが使ったリップを再びお姉様に返す事で……ッ!」 「いらないから。三個一パックの内の一個ぐらいあげるわよ。って、こら! 自分の使ったリップを強引にこっちの唇に押し付けようとすんな!」  白井と美琴はまるでハリウッド映画の主人公と敵役が|拳銃《けんじゆう》を|掴《つか》んで|揉《も》み合いになるような攻防を繰り広げていたが、ふと美琴の動きがピタリと止まった。  白井は気づく。美琴は目の前にいる自分ではなく、その延長線上にある何か別の物に目を奪われている事に。  ? と白井は、|怪誹《けげん》そうな顔で後ろへ振り向く。  胸パッド、である。  主に胸部に自信のない女性が下着の下に装着する事で誇りと体面を保つという、あの胸パットである。実際、女子しかいない———つまり誇示する対象のいない———『|学舎《まなびや》の|園《その》』では特に需要は高くなく、その一角だけやや売れ残りの哀愁が漂っている。  むむ、と白井はわずかに首をひねり……思い出した。  街を歩いている時に美琴が言った|台詞《せりふ》を。 『でもダイエットすると始めになくなるのは胸の脂肪らしいわよ』 「ははあ、気にしてたのですね。お姉様ってば、ぷぷ。バストとウェストを|天秤《てんびん》にかけて前者を選んだという話ですわねえ?」  なっ……、と|美琴《みこと》の表情が固まる。 「いや……、違いますわね。お姉様は胸の成長そのものに執着はないはず。となると、早く大人なボディになりたい[#「早く大人なボディになりたい」に傍点]とか子供扱いはやめて欲しい[#「子供扱いはやめて欲しい」に傍点]とか、もう|少《へ》し|曖味《あいまい》な願望に近いかもしれませんわね。ああっ、なんて|健気《けなげ》なお姉様! そこまでして振り向かせてみたい幸せな殿方とは一体|誰《だれ》の事でしょう? やはり意中の殿方は年上ですの? そういえば夏休み最後の日には|寮《りよサつ》の前で誰かと待ち合わせをしていたようですけど、中学生って感じではありませんでしたわねぇ?」  このタイミングで、この挑発。  絶対にどつかれると|白井《しらい》は思っていた。そしてどつかれた後に|繋《つな》げる会話もすでに頭の中に用意してあった。  が。  学園都市の|超能力者《レベル5》であり、|常盤台《ときわだい》中学のエースとすら呼ばれる|御坂《みさか》美琴は、顔を真っ赤にすると|傭《うつむ》いて何も言わなくなってしまった。 「あら? お姉様? お姉様ってばー……」  白井|黒子《くろこ》の顔が真っ青になり、 (ぎ、ギャグで済ますつもりがこのマジ反応ときましたの! まさか本当に本気で本心の……殿方が? 殿方が!? ———、ふっ。あの類人猿がァァあああああああああああ!!)  彼女はとある少年の顔を思い浮かべて心の中でハンカチを|噛《か》む。というより、噛み|千切《ちぎ》る。脳内世界でハンカチをギッタンギッタンにしていると、ようやく時間差で気を取り直した美琴はビニール包装された胸パッドを、いかにも興味なさそうな顔を装ってチラチラと横目で見ていた[#「いかにも興味なさそうな顔を装ってチラチラと横目で見ていた」に傍点]。『へ、へえ。ホントにこんなの|真面日《まじめ》に使ってる人とかいるんだ……』とかブツブツ言って、表面は関心なさげに見せようと努力しているが|興味津《きようみしんしん》々という感じだ。 「……、一口に胸パッドって言っても色々材質とか違いがあるのね。うわっ、こっちのヤツとか水風船にジェル入れてるみたい」  美琴の夢中ぶりを見て頭にくる白井だったが、かと言って|愛《いと》しのお姉様の発言はスルーできない。様々なモヤモヤを抱える白井は、そっと息を吐いて、 「はあ。豊胸手術もジェル入りのビニール袋を詰め込むらしいですわよ。大方、ゆさゆさ感でも演出するために工夫が必要なんじゃないですの?」 「ゆさゆさ……。な、なんか|形状《シルエツト》も色んなのが|揃《そろ》ってるようね」 「人それぞれですものね。あっ、お姉様のささやかな胸は成長するとあのタイプになるんじゃありませんの?」 「指を差すな|他《ほか》のお客さんもいるんだからっ!!」  慌てて|白井《しらい》の指を押さえる|美琴《みこと》だったが、しかし彼女の視線は白井が指差した物品へと注目しっ放しだ。それを遠目に見た白井としては、いきなりそんな巨大な胸パッドをブラジャーの中に突っ込んだら一発でみんな気づくだろうとため息をつく。  しばらくの間、時が|経《た》つのも忘れて一心不乱に胸パッドを観察していた美琴だったが、ふとそれらの置かれた棚から一歩退くと、小首を|傾《かし》げて、 「でも、これって結局服を脱いだ時には絶対ばれちゃうわよね」 「……ッ!? お、お姉様。まさかすでにそこまで視野に入れた未来設計を!?」 「は? え、あ! いや、違うわよ|黒子《くろこ》!! 体育! 体育の着替えの話だってば!!」  美琴は慌てて首を横に振ったが、白井は劇画っぽい|驚《おどろ》きの顔のままずっと固まっていた。      3  学園都市は夕暮れに染まっていた。  建物の壁の基調を白にしている『|学舎《まなびゃ》の|園《その》』は、空の色の変化を非常に映しやすい。学バスの最終発車時刻が迫っているせいか、五種類の制服に分かれたお嬢様達《じようさまたち》の流れはターミナルの方へ集中している。彼女達は美琴や白井と同じく、『学舎の園』の外に自分の|寮《りよう》があるのだろう。  バスの利用は強制ではないが、世間知らずなお嬢様《じようさま》の中には隔離された学園都市さえ怖がる者も多い。これが極まると、|寮《りよう》とバスと『|学舎《まなびや》の|園《その》』以外の場所を知らない、とか言い出す箱入り娘が出来上がるという訳だ。  そんな慌ただしい帰宅ラッシュの街の中を、|白井《しらい》と|美琴《みこと》はのんびりと歩いていた。  というより、疲れてぐったりして速度が出せないという感じだ。二人とも、|薄《うす》っぺらなカバンを持った手が力なくふらふらと揺れている。 「だ、だから何度でも言うように、あれは体育の着替えの話に過ぎないんだってば。い、いや。き、き、気になる男がいるとか、いないとか、そ、そういうのは、全然関係なく」 「で、ですから幾度でも言うように、|流石《さすが》に殿方の前で衣服をはだけさせる場面を|考慮《こうりよ》した未来設計はまだ早すぎですのと言ってますでしょう?」 「あーっ! ったく|悪趣味《あくしゆみ》な|露出《ろしゆつ》全開のレースの下着を買うようなヤツは聞き分けが悪いわね!」 「あ、悪趣味ですって!? おねっ、お姉様が手に取った下着にしたって、あんな|可愛《かわい》らしいものでは逆にぶりっ子っぽくて同じ女として気持ちが悪いですのよーだ!」  何だと何ですの! と、美琴と白井は|掴《つか》み合いになりかけるが、さっきから延々と口論を続けているせいか体力が|保《も》たないらしい。二人はため息をつくと全身から肩の力を抜く。  元からバスを利用しない二人は最終時刻を気にしていない。白井は生徒の動きに合わせて早くも店じまいを始めている小さな店々を横目で見ながら、 「で、お姉様。事の真相は後できっちり問い|質《ただ》すとして、これからどうしますの? 言い争ってる内に大分時間が過ぎてしまいましたわね。当初の|黒子《くろこ》プランではお買い物の後に軽いお食事でもと思ったのですけど」 「そうね。誤解はきっちり後で解き明かすとして、今日はここらが限界じゃない? 特に『学舎の園』は店閉まるの早いから」 「むむむ。でも『学舎の園』を出ればまだまだこれからが本番だぜというお店もいっぱいありますの。そう、例えば『|黒蜜堂《くろみつどう》』のデザートコースとか」 「あー、そこで|誘惑《ゆうわく》に負けるから黒子は余計な所まで幸多く実り豊かなボディに、———ひッ!?」  美琴は好き勝手に言いかけて、そこで吹き荒れる殺気を感知した。  |隣《となり》では、|傭《うつむ》いて表情が良く見えなくなった白井がブツブツと何か言っている。 「く、黒子? 今の|台詞《せりふ》は、別に食ったら運動すればいいじゃんって結論に持っていく予定だったのよ私は」 「おねーさまー。あまりそういう|乙女心《おとめこころ》を傷つけるような事をおっしゃられると白昼の往来で お洋服だけ|空間移動《テレポート》して差し上げますわよー?」  両手をわきわきさせる白井は|全《すべ》ての少女の天敵だ。彼女はその手で触れたものならスカートでもショーツでも好きな場所へ飛ばせてしまう。全裸も半裸も自由自在だ。  と、|美琴《みこと》が迫り来る脱衣の危機に|怯《おび》えていると、不意に携帯電話の着信メロディが鳴り|響《ひび》いて両者の|緊張《きんちよう》の糸を|緩《ゆる》めた。  美琴は自分の携帯電話のものとは違うメロディに耳をやって、 「|黒子《くろこ》。……あいっ変わらず|無駄《むだ》な機能ばっかりついた携帯電話よね。着信メロディの和音の数なんてそんな増やす必要あるの?」 「うふふ。そのくせサイズが小さすぎて、なくしやすい、ボタン押しづらい、モニタ見にくいの三拍子が|揃《そろ》っていますのよ、これ」  |白井《しらい》は力のない笑みと共に携帯電話を取り出した。  携帯電話、と言っても一般的なイメージとは大きく異なる。形は直径一センチ、全長五センチほどの、口紅のような円筒だ。白井が上部のボタンを押すと着信メロディが止まり、まるで 巻物みたいに、側面のスリットから紙のように|薄《うす》く透明な『本体』が滑り出てくる。 「本当に、見た目SFっぽいだけで機能性のないハッタリケータイよね、それ」 「余計なお世話ですのよ。わたくしはお|馬鹿《ばか》な未来未来が好きですの。透明なチューブの中を走る電車とかにも乗ってみたいですわ。———っと、失礼」  白井は美琴に背を向けて画面を眺め、それから本体を耳に当てる。  番号は登録してあるものだった。  画面に表示された文字は学園都市治安維持機関『|風紀委員《ジヤツジメント》』の連絡先。  白井はこの街の問題を解決するための、対能力者用の警察のような組織に所属している。 「はい白井ですのよー。今日はせっかくお姉様とお買い物できて結構イイ所まで進んでいましたのに|邪魔《じやま》を入れるとは何事ですの?」 『わー。こっちは|御坂嬢《みさかじよう》の|貞操《ていそう》を守れて一安心です』  当然ながら電話の相手は同じ|風紀委員《ジヤツジメント》の同僚だ。|飴玉《あめだま》を転がすような甘ったるい少女の声に、白井は今すぐ通話を切ってやろうかと本気で思う。 『白井さん。ちょっと私みたいな新入りだけじゃ対処できない問題に当たっちって。できればベテランさんの意見を仰ぎたいかなーって』 「できれば、レベルの話で?」 『あい』 「わたくし、今、念願|叶《かな》ってお姉様の|隣《となり》に立っているというのに?」 『あい。まさに偶然が織り成すナイスタイミングです。私自身もびっくりです。これは私に勝利の大爆笑をしろという事でしょうか? わっはっはっは!!』  白井は手近にあった店の壁に、携帯電話のマイクをガツンとぶつける。 『あ痛ァ!? み、耳がキーンって、受話器が変な風に……』 「もう一度|舐《な》めた口を|利《き》きやがったらガラスを|爪《つめ》で引っかく音をプレぜントですわ」 『と、とにかく第一七七支部にて待ってますので三〇分以内に。割と加速度的に状況が進行してますので』  ぶつっ、と通話が一方的に切れる。  あー、と|白井黒子《しらいくろこ》は携帯電話を仕舞うと、申し訳なさそうに|御坂美琴《みさかみこと》の方に振り返り、 「申し訳ありませんのお姉様。その、大変申し上げにくいのですけれど、無粋な|風紀委員《ジヤツジメント》の|馬鹿《ばか》が仕事を入れてきてしまって……」 「いいのよいいのよ。にっこにこの笑顔で送ってやるから」 「……、一切の未練がない事に本気で涙しますわよわたくし。では、お姉様もお気をつけて」  白井は行き先を変更し、バスターミナルへ向かう。歩いて学園都市を移動するより最終便を利用した方が時間を短縮できるからだ。  と、その途中でふと美琴が言った。 「黒子。仕事だから仕方ないのは分かるけど、今日は早めに帰れるように努力しなさい。夜になったら天気が崩れるかもしれないから」 「あら、本日は天気予報をチェックし忘れていたので気づきませんでしたわ。ありがとうございますですの。それではお姉様、また学生|寮《りよう》で」  白井がぺこりと頭を下げると、美琴に背を向けてバスターミナルへ向かう。後ろで同じように立ち去っていく美琴の足音も聞こえたが、それもすぐに聞こえなくなる。  白井は空模様を気にして、夕空を見上げる。今の所、雨は降りそうには見えないが、 (おや? ……、)  ふと、美琴の|台詞《せりふ》に違和感を覚えた。  夜になったら天気が崩れるかもしれないから。  一見、何の変哲もない普通の台詞に聞こえるかもしれないが、学園都市は三基の人工衛星を打ち上げており、その内の一基『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』は完全なシミュレートマシンとして機能しているはずだ[#「はずだ」に傍点]。天気予報も例外でなく、つまり『かもしれないから』などという|曖昧《あいまい》な言葉は日常で使用しない。 (となると、お姉様は……)  白井は美琴の台詞がちょっと気にかかったが、目先の問題を片付けるのに精一杯だった。最終便はもう一〇分もしない内に発車してしまう。|薄《うす》っぺらなカバンの取っ手を握り直し、|未《いま》だ見えない目的地に向かって全力疾走していく内に、いつしか白井の中から小さな違和感は飛んでいってしまった。 [#改ページ]    行間 一  学園都市の第七学区。 『|学舎《まなびや》の|園《その》』と同じ学区にありながら、まったくもって華やかさが足りない一角に、とある少年、|上条当麻《かみじようとうま》の学生|寮《りよう》がある。  当然ながら男子寮なのだが、この一室だけは例外がまかり通っているらしく、長い銀髪に緑の|瞳《ひとみ》、真っ白な修道服を着た、一四、五歳の少女が|居候《いそうろう》としてゴロゴロしている。  そんなゴロゴロ少女インデックスは、現在テレビの前を独占していた。  映っているのは天気予報。巨大な日本地図をバックに、スーツを着たお姉さんがにこにこ笑顔で|洗濯物《せんたくもの》乾き指数を告げている。ちょっと前までは紫外線情報だったので、平凡なる高校生・上条当麻としては、この辺りに小さな季節の移り変わりを感じる今日この|頃《ごろ》だ(それでもまだまだ残暑の真っ最中だが)。 「とうま、とうま。何でこれで明日の天気が分かるの? なんか日本地図に切り株の年輪みたいなのが描いてあるだけなのに」  シスター少女が振り返らずに聞くと、ワンルームのキッチンスペースから|呆《あき》れたような上条の声が返ってくる。彼は夕飯の|唐揚《からあ》げを作るべく下味をつけた|鶏肉《とりにく》を油の中に落としつつ、「インデックスー。テレビ|観《み》る時はちゃんと後ろに下がるように。あとその年輪みたいなのは等圧線って言うの。気圧の山とか谷とか見て雲ができるかどうか|大雑把《おおざつぱ》に調べてるんだよ。ま、山に雲がぶつかって雨が降ったりもするから、単に気圧だけの問題じゃないだろうけど」 「ふうん。って、あれ? 地形による天変の読み込み? ……、ハッ! 学園都市はもはや人工的な手法で風水読みを実現してしまっているんだね!!」 「楽しそうにわなわな|震《ふる》えてるようだからそっとしとくけど。代わりに|三毛猫《みけねこ》の相手しよう。唐揚げを味見タイムだぞー」  上条は揚げ物用の|鉄箸《てつばし》で油の中からこんがりとした出来立ての唐揚げを一つ|摘《つま》むと、小皿に載せて床に置く。インデックスの近くで丸まっていた三毛猫は即座に反応、矢のような速さで小皿へ駆け込むと、『熱っちい! 熱ちいけど食う! 熱つーっ!』とチビチビ|噛《か》んではバタバタと床を転がっての繰り返し。上条はさらに水を入れた小皿をもう一っ床に置く。この猫、元々|野良《のら》ではなく|誰《だれ》かに飼われていたのか、間近で揚げ物のジュージュー音を聞いても一向に警戒する様子がない。  それを見たインデックスは、ガバァ! とテレビの前から勢い良く立ち上がり、 「ず、ずるい。いっつも私がつまみ食いするととうまは怒るのに、スフィンクスだけ優遇されるなんてそんなのずるい!」 「あ? お前の場合はうっかり目を離してると全部食べちゃうからダメなんだってば。……って待て待て! それはまだ完成途中っていうか下味つけただけのモノだから待ってーっ!!」  全力で|襲《おそ》いかかる食欲少女から、|上条《かみじよう》は|鉄箸《てつばし》を巧みに操り、今夜の夕食を何とか死守する。その間に油の中の|唐揚《からあ》げが二つほど黒焦げになっていく。  唐揚げの代わりに少年の頭にかぶりついている空腹イライラ修道女インデックスは、ふと子供のように首を|傾《かし》げて、 「でも、とうま。天気予報のお姉さんって時々外れた事言ったりするよね。おっちょこちょいが売りなの?」 「鉛前に言われるようじゃ天気予報のお姉さんも終わりだな……って痛あ!?」がぶり、という音と共に少年の絶叫。「あ、あれだよ。天気予報っつっても|完壁《かんぺき》じゃねーからな。最近までは完壁だったみたいだけど、今は演算装置が|壊《こわ》れちまってるみたいだし」 「???」  インデックスは頭の中にいっぱい疑問を抱えているようだが、上条は深くは答えない。 『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』。  地球上の空気分子の動き一つ つまでも正確に予測演算できる究極のスーパーコンピュータ。学園都市が打ち上げた三基の人工衛星の内の一基は、もはやこの世に存在しない。  上条はテレビ画面に目をやる。  完全なる歯車を失った天気予報は終わり、学園都市の渋滞情報が始まっていた。 [#改ページ]    第二章 向き合う乙女達 Space_and_Point.      1  |白井黒子《しらいくろこ》の乗る学バスは『|学舎《まなびや》の|園《その》』の五校共用のものだ。  お嬢様《じようさま》学校の財力なら各校ごとに用意する事もできるのだが、『少しでも多くの、それでいて安全は保障された社会に触れるため』|敢《あ》えて混合にしてあるようだ。  その大きさと内装の豪華さから『二階建てのパレードバス』と呼ばれる学バス———学生の座席は一階に集中し、二階部分がカフェラウンジになっているほどの豪華さだ———は、従って大きな通りを選んで五つの学生|寮《りよキつ》を巡回する。  白井黒子が降りたのは、|常盤台《ときわだい》中学の学生寮前ではない。  全く別の学生寮前の停留所で|他《ほか》の学校の少女|達《たち》に混じって伸びをした白井は、小さくため息をついた。あのバスのどこが箱入り娘化防止のための『多くの社会』だと本気で思う。常盤台中学の学生寮前には他の系列の、いわゆる普通のバスも|停《と》まるが、両者の差は雲泥と言って良い。  時刻は午後七時三〇分。  夏休みの閲はこの時間でも夕暮れを保っていたが、九月半ばではもう暗い。  白井はカバンの中から|風紀委員《ジヤツジメント》の腕章を取り出して|半袖《はんそで》の肩にくっつけると、周りの少女達 の流れとは別の方向に一人きりで歩いていく。|薄《うす》っぺらなカバンは、『放課後』から『仕事中』に切り替わるとお荷物感がさらに増した。求めるものが『学校に必要な物』から『戦いに必要な物』に変わりつつあるのだ。  学生寮のすぐ近くには、また別の学校の校舎が見える。 『学舎の園』の中とはうって変わった、ごくごく普通のコンクリートの四角い校舎に白井は入る。|普段《ふだん》生徒が使わない職員用の玄関からスリッパを拝借して、ポツポツと|灯《あか》りの残る廊下へ。リノリウムの冷たく硬い感触を|踏《ふ》みしめてしばらく進むと、『風紀委員活動第一七七支部』という長ったらしい表札のドアが見える。  ドアの横にはガラス板がついている。指紋、静脈、指先の微振動パターンの三種を調べる厳重なロックを外すと、白井黒子はノックもせずに勢い良くドアを開け放った。  バーン! という大きな音。  中にいた少女が、ビクゥ! と肩を|震《ふる》わせた。彼女の名前は|初春飾利《ういはるかざり》。白井と同い年だが、低い背と丸っこい肩のラインのせいか、年下にも見える。セーラーの夏服すら似合わない中学生というのもかなり珍しい気がする。黒の髪は短めで、|薔薇《ばら》やハイビスカスなど、花を模した飾りをたくさんつけていた。遠目に見ると派手な花瓶を頭に載っけているみたいだ。  |初春《ういはる》のビビり顔を見た|白井《しらい》は、ずかずかと『第一七七支部』へと足を|踏《ふ》み入れ、 「で、何の用ですの? |風紀委員《ジヤツジメント》なんて山ほどいるくせに、わざわざこのわたくしを呼ばねばならないとはどういう事かしら」 「うーん。冷静に考えると絶対に白井さんでなければならないほどではないような」 「……、わたくしがお姉様とお買い物していたのを知っていたくせに、そう思うのならもう少し違った態度を取ってもよろしいんではないですの?」 「ばんざーいッ!」 「逆です! 何で両手を挙げて大感激ですのよ!?」 白井は|空間移動《テレポート》を使って|瞬間的《しゆんかんてき》に初春の元へ|辿《たど》り着くと、小さな少女のこめかみに両の|拳《こぶし》 を当ててぐりぐりとひねりを加えていく。|薄《うす》っぺらなカバンを持ったままなので、カバンの金 具が初春の耳にゴツゴツと当たる。 彼女|達《たち》は、共に同じ中学一年生だ。  にも|拘《かか》わらず上下関係のようなものができているのは、|常盤台《ときわだい》中学というブランドと白井自身の|大能力《レベル4》によるものだ。ついでに白井は|風紀委員《ジヤツジメント》の初仕事で、まだ一般人だった|頃《ころ》の初春を期けた事があるが、これを気にしているのは初春の方だけだ。  第一七七支部は、学校というよりオフィスの一室のようだった。市役所にあるようなスチール製のビジネスデスクが並べられ、コンピュータが何台も置いてあった。  初春はコンピュータの一台に向かい、人間工学を応用した、ダリの時計のようなグニャグニャした曲線デザインの『科学的に疲れにくい|椅子《いす》』に座っている。その背後へ移動してこめかみを攻める白井は、自然とコンピュータの画面を目で追った。  映っているのはGPS上の地図のようだ。何らかの事件が発生しているのか、赤い×印が描かれている。その|他《ほか》にも地図の何点かがポイントされ、別のウィンドウに写真やデータなどが表示されていた。  それが何を意味しているかは、初春の説明を聞かなければ分からない。  が、|大雑把《おおざつぱ》に眺めた白井の感想としては、 「あら。校内での|揉《も》め事ではありませんわね」  学校の中の問題なら、GPSなど使わない。校内の見取り図を持ってくるはずだ。  |風紀委員《ジヤツジメント》はその名の通り、基本的には校内での治安維持を行うための組織だ。だから支部は各学校に一つずつ置いてあるし、警察の交番と違って二四時間営業ではない。最終下校時刻と共にカギも掛けて無人となる(今は例外のようだが)。  非常事態が発生しない限り、通常『学外』の治安維持活動は|警備員《アンチスキル》の|管轄《かんかつ》だ。危険な裏路地や夜間の巡回などを生徒に任せる訳にはいかない、というのが大人の言い分だった。  白井がこめかみのグリグリを|止《や》めると、初春はややホッとした顔で、 「マニュアル通り|警備員《アンチスキル》の方に連絡は回しましたけど、なんか状況が妙なんですよ。じきに|警備員《アンチスキル》から情報提供を求められるのは必至な感じだったんで、私より|白井《しらい》さんの方がテキパキ答えられそうだなーって。あ、紅茶とか掩れましょうか」 「ご|遠慮《えんりよ》しますわ。空腹のお|腹《なか》にお茶だけ注ぐのは|趣味《しゆみ》じゃありませんのよ」  白井にとって紅茶はあくまで料理やデザートなどを引き立てるためのものだと考えているため、アフタヌーンティーなどお茶の方がメインとなる催しはあまり好まない。  と、白井のそっけない返事を聞いた|初春《ういはる》は、ガーン! と顔を青くして、 「う、ううっ! せっかく少しでもお嬢様《じようさま》っぽさを演出するために一生|懸命《けんめい》紅茶の本を読んてマイカイ油とかちょっと専門っぽい香料も用意しておいたのに! なんかさらにお嬢様っぽい余裕の|台詞《せりふ》で|回避《かいひ》されました! でも学校で紅茶って|憧《あごが》れますよね上流階級みたいで!」  |常盤台《ときわだい》中学、そしてそこに通うお嬢様とは学園都市中の少女|達《たち》の憧れの的だ。と同時に、実際の常盤台中学の生活を知らない者がほとんどである。その中には、たまにお嬢様学校に憧れ るあまり変な方向へ勉強して、初春のような状態に|陥《おちい》る者が現れる。 「はあ。そういう形から入るのは成金だけですわ。で、結局どこで何が起きているんですの?」 「ああ、成金でも成れば金持ちじゃんと思う私はやっぱり小市民なんですね。で、問題の事件なんですけど、モノはどうって事はありません。強盗というか、ひったくりですね。でも一〇人がかりで被害者に|襲《おそ》いかかってますから、スマートな方法とは思えませんけど」  初春の声を、白井は頭の中で吟味する。|薄《うす》っぺらなカバンを手近な|椅子《いす》に置いて、モニタの方へ意識を集中させる。  コンピュータの画面には第七学区の地図が描かれ、駅前大通りの一角で×印が表示されている。付近の道路に書かれた色つきの矢印は犯人の予想逃走ルートか。  彼女は|怪認《けげん》そうな目で、 「それこそ、わたくし達とは縁がなさそうな事件ですわよ」 「こっからなんです問題なのは。|目撃者《もくげきしや》の話によると、盗まれたのは旅行用のキャリーケースらしいんですけど」 「キャリーケース???」 「あ、知らないんですか白井さん。あれですよ。スーツケースぐらい大きくて、底に車輪がつゼてるカバンの一種です。個人の旅行というよりは、スチュワーデスさんが使ってるってイメージがありますかね」初春はテキパキと説明し、「で、このキャリーケースに荷札がついてたって目撃情報があって」 「ようは、旅行カバンに荷札がついていたんですのよね? それが何か問題なんですの?」 「ええっと、まあ見てください。自律型警備ロボットも映像を拾ってたんで、そっちから拡大して確かめてみたんですけど」  初春がキーを|叩《たた》くと、新しいウィンドウが開く。そこには、荷札の番号らしき数字と荷主と送り先の名前が書いてある。  |白井《しらい》は『送り先』を読んで、わずかに|眉《まゆ》をひそめた。 「|常盤台《ときわだい》中学付属演算補助施設……? そんな名前、聞いた事がありませんの」 「あ、ないんですか。『|学舎《まなびや》の|園《その》』はコンタクト取りづらいんで確認が難しいんですよね。ほら、もうじき控えている|大覇星祭《だいはせいさい》だってあそこは競技場として開放しないでしょう?」|初春《ういはる》はそっちの方が残念だと言わんばかりの声で、「荷札の番号も照会してみましたけど、おかしいんです。確かにこの番号で登録はされているんですが、モノは並列演算機器を束ねるホストコンピュータの熱暴走を防ぐための大規模冷却装置だって。どう考えてもキャリーケースに収まりませんよね、そんなの」 「何ですって……? そもそも『学舎の園』では金属部品ならまだしも、機材そのものの搬入は聞いたことありませんわよ」 「荷札自体の映像解析を行っていますが、これだけでは本物かどうか確証は持てないんです。やっぱりデタラメな荷札をコピーして、適当に|貼《は》り付けているだけなんでしょうか」 「……、待ちなさい。カメラの映像とか、|目撃者《もくげきしや》とか。それ以前に、そもそもキャリーを盗まれた当人から直接事件について話を聞いた方が早いじゃありませんの」 「当人はいないんです」  初春のあっさりした答えに、白井は|驚《おどろ》いた顔で少女の顔を見返した。  もう一度、彼女は言う。 「私|達《たち》とは別に、被害者の方も独自に追跡し始めたみたいなんです。直前の映像、見ます?強盗は一〇人以上いたのに、たった一人で|誰《だれ》かに連絡を取りながら追いかけて行ってますよ」  初春がコンピュータを操作すると、ウィンドウだらけの画面にさらに一つ、新たなウィンドウが開く。鮮明なビデオ映像だった。駅前の大通りらしき場所で、高級そうなスーツを着た一人の男が周囲を見回した後に、慌てて携帯電話ではなく無線機を使ってどこかと連絡を取っている。 「ここです」  と、初春は唐突に動画を一時停止させた。 「何か妙なものでも映っていますの?」  白井は止まった画面を見たが、特におかしい所はない。無線機を手にしたスーツの男が、急に首を振った所で映像が止まっているため、顔もプレて良く見えない。 「白井さん。被害者のスーツがちょっとめくれて、何か見えてません2」 「はあ。まあ、言われてみれば」  男の動きに合わせて、スーツの端がわずかにめくれている。そして|脇腹《わきばら》の辺りに、黒っぽいサスペンダーのようなものが見えた。 「拡大すると、型番が見えるんですよ。L_Y010021。大手銃器メーカー公式のショルダーホルスターです。服の中に|拳銃《けんじゆう》を収めておくためのヤツですよ。ほら、刑事ドラマとかでスーツの|懐《ふところ》から|拳銃《けんじゆう》を取り出したりするじゃないですか。あれですあれ」  |初春《ういはる》はホルスターのベルトを拡大しながら言う。|白井《しらい》は小さく笑って、 「ただの飾りかもしれませんわよ?」 「ええ。ただの飾りかもしれませんね。こっちも」  続いて、初春は何かの操作をした。スーツの男の胸の辺りが拡大され、何百本もの細かい矢印が出現した。服の細かい凹凸を検出しているのだ。砂鉄が磁石で集まるように、無数の矢印はおぼろげに拳銃らしきシルエットを形作っている。 「一応、映像はこれだけです。……もっと|他《ほか》に映ってても良さそうなものなんですけどね。白井さん、どう思います?」  この男が他のカメラを|避《さ》けるように移動しているのか、単にカメラを避けて逃げる強盗を追い駆けた結果、彼の姿も|捉《とら》えられなくなったのか、白井は少し考えて、 「まったく。またいつも通りの|物騒《ぶつそう》な事になりそうな予感がしますわね」 「あれ? 白井さん、|予知能力《フアービジヨン》系にも目覚めたんですか?」 「うるさいですわよ。拳銃の方はこれだけのデータでははっきり言えませんけど、無線機の方は|風紀委員《ジヤツジメント》の訓練で見たプロ仕様のものと似ていますの。となると……、なるほど。なかなか厄介な事情がありそうですわね。そもそも、わたくし|達《たち》に通報してこないのもおかしいですし」  独自に動く被害者。  |常盤台《ときわだい》中学が|絡《から》んだキャリーケース。  不自然なまでに整っている装備品の数々。  確かに普通の事件とはどこか違う。しかも本当に拳銃が登場するようなら、|警備員《アンチスキル》の装備も変更される可能性もある。|風紀委員《ジヤツジメント》の出番は少なくなるだろうが(|風紀委員《ジヤツジメント》のメンバー全員が白井のように強力な|大能力《レペル4》認定に達している訳ではない)、一応『|学舎《まなびや》の|園《その》』や常盤台中学に 詳しい人間がいた方が多少の助けにはなるかもしれない。 「で、白井さん。犯人と被害者、どちらの情報を重点的に追うべきでしょうか」 「本来なら両方の情報を洗えと言う所でしょうけど、やはり強奪犯の方ですわね。キャリーケースを回収すれば、被害者の方はわたくし達が追わずとも、こちらへ接触せざるを得ないでしょうし」  白井は息を|吐《は》いて一歩後ろへ下がる。  そのまま初春に命令する。 「それで、犯人の方の逃走ルートは分かってますの? と言っても、わたくしがここまで来るのに三〇分かかってますから、正確な場所など分からないでしようけど」 「それがそうでもないんです」  初春は簡単に告げる。 「彼らはキャリーを盗んだ後、特に車などは使わずに徒歩で地下街へ入ったようです。おそらく人工衛星の目から隠れるためのものでしょうね」 「……、? わたくし|達《たち》の監視から逃れるために? ですけど、地下にしたって全くカメラがない訳じゃないですわよね。設置型のカメラの|他《ほか》に自律ロボットも巡回していますし」 「ええ。でも地上よりは逃げやすいはずです。衛星による上空撮影が封じられた場合、その他のカメラは人混みを上手く使えば死角を作れますから。それに地下を走った方が速いっていうのもあるんですよ。今、信号機の配電ミスか何かのトラブルで三号線、四八号線一三一号線など現場周辺の主要道路に混雑が起きているんです。特に車を使った移動は絶望的ですよ。走るなら地下を通った方が速度と|隠密性《おんみつせい》の両面でお得でしょうね」  そうですの、と|白井《しらい》は小さく|頷《うなず》く。  |初春《ういはる》からの連絡を受けた|警備員《アンチスキル》達も動き始めてはいるだろう。しかし、この渋滞に巻き込まれれば車両の足は止められるだろうし、この事件がどれだけの重要度を示すか分からない現状では、ヘリなども申請に時間がかかる。隊員個人の独断専行を防ぐ目的で、何重ものプロセスを用意しているためだが、組織というのは小回りが|利《き》かない弊害を生むのだ。 「はあ。わたくしが手っ取り早く向かった方が良さそうですわね」 「うええ!? 白井さんがいなくなったら結局私が一人で|警備員《アンチスキル》に受け答えしなくちゃいけないじゃないですか。面倒くさーい!」  本気で嫌がる初春を、白井はつまらなそうに見つめて、 「心配ご無用ですわよ。今からその面倒を片付けに行くんですから」  そのまま彼女は|椅子《いす》の上に置いていた|薄《うす》っぺらなカバンを拾い、出口に向かう。  |白井黒子《しらいくろこ》は、振り返りもせずに告げる。 「わたくしを|誰《だれ》だと思ってますの。地下だろうがどこだろうが関係ありませんわよ」      2  白井黒子の能力は『|空間移動《テレポート》』である。  とはいえ、その力は万能ではない。移動させる質量は一三〇・七キログラムが限界で、最大飛距離は質量に|関《かか》わらず八一・五メートル以上は伸びないし、そもそも『手で触れた物』にしか力は作用しない。遠くにある物を手元に持ってくる、という作業は行えないのだ。  しかし逆に言えば。  常に力の基点である、『自分の体』を移動させるのに苦労はしない。  ヒュン、ヒュン、という小刻みに|響《ひび》く空を裂く音。  白井黒子は八〇メートルの距離を移動するたびに、次の八〇メートルに目標地を指定して飛ぶ。周りからは点々と見えたり消えたりしているように映るだろう。当然ながら二本の足で走るよりも格段に速い。時速に換算して二八八キロに届く。 (直線の移動ではなく、点と点の移動ですので慣性の力が働かないのが救いですわよね。スカートのまま空気抵抗とか浴びてたら|洒落《しやれ》になりませんし)  白井は心の中で|咳《つぶや》きながらさらに空間を渡る。歩道、手すり、自販機の頭など、次々と足場を変えて飛び跳ねる。周囲から|驚《おどろ》きの声が上がるが、彼らも同じ能力者だ。さらに白井が|常盤台《ときわだい》中学の制服を着て|風紀委員《ジヤツジメント》の腕章をつけているせいか、特に大きな|騒《さわ》ぎには発展しない。  地下街を走る強奪犯|達《たち》に対し、白井は地上を飛び回っている。が、元々地下街の出入り口は数が決まっているので、出口さえ的確に押さえて熔けば見逃す事はない。むしろ、不用意に後を追い駆けると強奪犯達を精神的に追い詰め、地下街にいる一般人を巻き込むような暴挙に出る恐れもある(強奪犯が武器を所持しているかどうかは不明だが、たとえ素手でも一〇人分もの力が|揃《そろ》えば、民間人にとっては立派な脅威だ)。普通に考えて、地下街は出口が限定されるため、混乱が起きると一般人の|避難《ひなん》は難しくなる。地上よりもデリケートな対処が必要なのだ。  取り押さえるなら、可能な限り一般人のいない場所、それも地上で。  なおかつ、短時間で確実に決着をつけられる状況を作れれば最高だ。  と、携帯電話が鳴った。  |空間移動《テレポート》を止めないまま白井が手に取ると、ブツッブツッと途切れがちな声が聞こえてきた。|瞬間的《しゆんかんてき》に空間を渡っているため、電波の受信位置が次々と移動していく弊害だ。 『しら———い、さん。犯人達に、動き、です。……地下街『エリアセール』出口AO3、から、地上へ、出たようです。———地下街の突き当たりから、次の地下街へ……向かっているみたいで……』  対して、|白井黒子《しらいくろこ》の返事は一言。 「もう見えていますわ」  携帯電話を切り、ポケットへ。  地下鉄の出入り口のような建物の近く。まるでレンガのように|敷《し》き詰められた自動車の群れの|隙間《すきま》を|縫《ぬ》って走っている人影がいた。クラクションに怒鳴られながら進むスーツの男|達《たち》の一人が、白いキャリーケースの車輪を転がして引きずっているのが見えた。|隠密《おんみつ》行動でも望んでいたらしい男達は、どこか肩身が狭そうに大きな車道を渡って路地の細い道へと入っていく。  白井は|薄《うす》っぺらなカバンを|掴《つか》む手に力を込め、  ダン! と、|一際《ひときわ》大きく地面を|踏《ふ》む。  |瞬間《しゆんかん》、すでに彼女は裏路地にいた。一〇人近い男達の、その真ん中へ。白井はキャリーケースを手にした男と目を合わせてにっこりと微笑、彼の顔が|驚《おどろ》きの表情を作る前にキャリーケースの表面を指でなぞる。  |空間移動《テレポート》。  再び白井の姿が消え、男達の行く手を遮るように路地の先へ立ち|塞《ふさ》がった。その|傍《かたわ》らには、|一緒《いつしよ》に空間を渡った白いキャリーケースが置いてある。  白井は片手を腰に当て、もう片方の手で地面のキャリーケースに触れ、 「失礼、|風紀委員《ジヤツジメント》です。|何故《なぜ》、わたくしがここへやってきたか説明する必要はおありですの?」  聞きようによっては見下したような声だった。  対して、男達の反応は迅速。彼らは皆、|揃《そろ》ってスーツの胸元に手を突っ込むと、全員が同じデザインの黒い|拳銃《けんじゆう》を取り出す。見るだけでズシリと重たそうな印象を|叩《たた》きつけてくる物だ。 (チッ、やはりただのひったくりではありませんわね! どこの刑事ドラマのワンシーンですのよ!!)  白井はキャリーケースを盾にするように身を低く|屈《かが》めたが、彼らは|射撃《しやげき》の腕に自信があるの か『盾』からはみ出た部分を|狙《ねら》い|撃《う》ちするつもりらしく、引き金にかかった人差し指の動きは 少しも止まらない。白井の|喉《のど》が、ほんのわずかに、しかし不自然に音を鳴らす。彼女の|空間移動《テレポート》 は、飛んできた弾丸を一発一発的確に移動させられるほどの対応力などない。  一〇の銃口が火を噴く。  が、その一歩手前で白井は空間を渡っていた。狙いは最後尾の男のさらに後ろ。  白井黒子とキャリーケースが|虚空《こくう》へ消える。彼女の薄っぺらなカバンだけが空中に取り残され、一瞬の間を置いて地面へ|真《ま》っ|直《す》ぐ落っこちた。  突然標的が目の前から消失した事で男達が戸惑っている間に、白井は巨大なキャリーケースぜ両手で欄んで一番後ろの男の背中を思い切り|殴《なぐ》り倒す。 「がっ……!」  という最後尾の男の悲鳴と共に、強奪犯|達《たち》は一斉に振り返ろうとする。|白井《しらい》はその内の一人に触れ、|空間移動《テレポート》を実行。男を即座に移動させる。しかし距離はほんの数センチだけ。そして体の向きを一八〇度変更。  八人の男達は一斉に背後へ振り返ったが、一人の男だけ逆に仲間を|睨《にら》んでいる姿勢になる。  クロスカウンターのように味方同士で銃口を交差させる強奪犯達。 「あ」  と、向きを逆転させられた男が慌てて銃口を上へ|逸《そ》らした所で、その背中を白井は思い切り |蹴飛《けヒ》ばす。将棋倒しのように強奪犯達は地面に倒れ込んだ。白井は思い切りキャリーケースを振り上げると、銃を握る男達の手首目掛けて次々と振り下ろした。短い悲鳴が連続する。逃れようにも糸が|絡《から》まったように身動きが取れず、下手に銃を使えば折り重なる味方の体を|撃《う》ち抜きかねない。結果として、彼らは人殺しの道具を|揃《そろ》えているにも|拘《かかわ》らず、無抵抗に|殴《なぐ》り倒され意識を刈り取られていった。 「どうって事はありませんわね。あっさり過ぎるのが逆に気にかかりますの」  白井は皮肉を言ったが、答える声はない。  彼女は|爪先《つまさき》で強奪犯達を軽く小突いて意識の有無を確かめてから、|風紀委員《ジヤツジメント》装備の非金属製 |手錠《てじよう》で彼らを拘束する。四人目で手錠が品切れとなり、落ちていた廃棄ケーブルで代用した。彼らは手首を圧迫されても目を覚ます事はなかった。  |警備員《アンチスキル》に携帯電話で連絡を入れた後、白井は彼らの装備に目をやる。  銃の名前や型番は見てもいまいち分からない。ただ、|風紀委員《ジヤツジメント》の訓練で握ったものとは大分違う。学園都市で開発している|拳銃《けんじゆう》は本体に金属を使っていないため、非常に軽い。対して、彼らの拳銃は鋼の塊という感じだ。側面には数字やアルファベットが刻印されている。銃の正式な型番ですの? と白井は適当に考えたが、そこまでだ。銃器メインで戦う|警備員《アンチスキル》ならともかく、能力で戦う白井はそこまで装備品について専門的な知識を持たない。  その|他《ほか》、スーツの男達の体を調べても身分証のようなものはない。意図的に削除しているようにも見える。白井は倒れた男の顔を見て、ほんのわずかに舌打ちし、 「……、金歯?」  口をポカンと開けて気絶している男の姿に、白井は疑問の声を放った。今の学園都市ではもっと優れた素材が数多く作られている。今時、この街で金歯など使う人間などいない。  スラックスのポケットの中にあった、アドレス登録がゼロ件の携帯電話などを確かめても、やはり古い。とても学園都市では売り物にならないようなものばかりだ。  学園都市の中と外では技術レベルが二、三〇年異なると言われている。電子機器はもちろん、一見テクノロジーとは無縁の小物であっても違いが見えてくる事がある。 (銃の構え方にはそこそこ訓練の跡が|窺《うかが》えましたが、わたくしの能力に|翻弄《ほんろう》される様はまるで初めてといった感じでしたの。…-やはり彼らは能力者とは無縁の『外』のプロかしら) 「……」  わざわざ『外』の人間が|潜入《せんにゆう》してまで追いかけていたキャリーケース。  |白井《しらい》は改めて手の中の『それ』に視線を落とす。  大きなものだ。旅行カバンの基本に漏れず、直方体の形をしている。自分ぐらいなら|膝《ひざ》を抱えれば丸ごと入ってしまいそうだ。色は白く、表面にワックスでも塗ったような光沢を放っている特殊な素材である。  彼女はキャリーを閉じる留め具に手をやったが、 「|鍵《かぎ》が……。まあ、当然ですわね」  しかし、改めて観察すると、鍵がやけに精巧にできているのに気づく。アナログな鍵が二つ、電子|錠《じよう》が一つ、さらに組み合わせパターンが事実上無限と呼ばれる磁力錠までついている。 「ま、わたくしの力ならどうって事はありませんけど」  彼女の力は|空間移動《テレポート》だ。触れた物しか移動できないため、箱の中の物体を取り出す事はできない。しかし逆に、外側の箱だけを移動させる事で[#「外側の箱だけを移動させる事で」に傍点]、中身を取り出すのは可能なのだ[#「中身を取り出すのは可能なのだ」に傍点]。  銀行の大金庫のような大質量の『箱』なら動かせないが、キャリーぐらいなら難しくない。白井は適当にキャリーに右手をかざし、その指先で表面をなぞり、 (ん?)  と、ふと気づいた。  このケースには、極端に|隙間《すきま》が少ない。まるで防水加工のように、所々にゴムのパッキンらしき物を詰めて、あらゆる隙間がシールドしてある。 (まさか……写真のフィルムのように、光に反応するものでも入ってますの? ……中身は|繊細《せんさい》なものかしら。あら、わたくし、こいつを使ってあの男|達《たち》をどつき回していますのに)  白井は少し考えたが、やがて適当に結論を出す。 (ま、透視系か読心系の同僚でも呼んで中身を確かめるまで、開けるのはちょっと保留にしておいた方が無難ですわね)  キャリーをジロジロと見回し、シールドの|徹底《てつてい》ぶりに|呆《あき》れていた白井は、ふとキャリーの|蓋《ふた》を封じるように、側面にガムテープのようなものが|貼《は》ってあるのを発見した。例の荷札だった。紙幣に似た|緻密《ちみつ》な印刷が|施《ほどこ》してある。おそらく|他《ほか》にも、ICチップでも埋め込んであるのだろう。  荷札に書かれた内容は、|初春《ういはる》に見せてもらったものと同じ。  機械を通さなければ判別できないだろうが、少なくとも見た目におかしな点は見当たらない。 (このマークは……?)  白井|黒子《くろこ》はキャリーケースの表面を改めてなぞる。  荷札とは別に、ケースの素材に直接刻印されたマークがある。スタンプのような丸い|縁《ふち》の中に、いくつか四角い図形を重ねて描いただけの、簡単なものだ。どこかで見たような気もするが、明確に思い出せない。 「……ま、分からない事は聞いてみるのが一番ですの」  |白井《しらい》はさっさと思考を放棄すると、スカートのポケットから携帯電話を取り出した。小さな円筒の側面から巻物みたいに|超薄型《ちよううすがた》の本体を引き出し、カメラを使ってキャリーケ!ス全体と、荷札、マークをそれぞれ撮影し、『要調査』の一文と共に|初春《ういはる》の元ヘメールで送る。  果たして、一二〇秒で携帯電話に反応があった。  着信メロディの最初の一音符で白井は通話ボタンを押す。 『白井さーん。初春です。とりあえず仕事をこなしたので報告とご|褒美《ほうび》要求の連絡ですよ』 「報告は受けますが要求は通しませんわよ」  白井は適当に流したが、内心では(気づかれないように)初春の調査能力に舌を巻く。いくら|書庫《バンク》へのアクセス権限を持っているとはいえ、この応答の速さは尋常ではない。 『要求とは通らないものを通すという意味なんです! ま、とにかく先に報告です。白井さん、そのキャリーは簡単に言えば高気密性と各種宇宙線対策を|施《ほどこ》された特殊ケースです。ほら、表面が妙にテカテカしてません?』  言われてみれば、と白井はキャリーケースの表面を眺める。まるでワックスでも塗ったように、光を照り返して白井の顔を映し出していた。 『宇宙服とかシャトルの表面に使われている素材の豪華版みたいなものですね。使ってる技術を見れば|一目瞭然《いちもくりようぜん》ですが、もちろん学園都市製です』 「しかし、宇宙線対策というのは……どういう事ですの?」 『そのまんまですよ。宇宙線対策なんて地球上ではあんまり必要じゃありませんよね。最近はオゾン層|破壊《はかい》もありますから|一概《いちがい》に言えませんけど』 (となると……大気圏外という事は……これは、もしかして宇宙船外活動で使用するための……?)  思わぬ展開に、白井はギョッとした。 『次に荷札です。っと、その前に……白井さん、ちょっと追加のお願いがあるんですけど。携帯電話をR.W.S.モードに切り替えてもう一回荷札を撮影してください。荷札の右端に、赤い四角がありますよね。そこを中心に』 「は? R.W.S.ですって?」 『ICチップなんかの電波情報を読み取るためのモードですっ! |風紀委員《ジヤツジメント》の携帯品として義務付けられてますよ。ほら、私が白井さんの携帯電話に追加拡張チップを差し込んであげたでしょう!?というかマニュアル読んでないんですか!』 「携帯電話って何となく使い方は分かっていますから、説明書の細かい所まで目を通す気は起きないんですのよね……」 『あーもう! とにかくですね、まずはメインメニューを開いて……』  |初春《ういはる》の声に従って|白井《しらい》は携帯電話を操作し、見た事のない画面を表示して、もう一回荷札を撮影した。それを添付ファイルとしてメールにくっつけて初春の元へ送信する。 『おっ、きたきた来ました。えーっと、走査結果の方はっと……当たりみたいです。やはり、この荷札自体は学園都市発行の本物ですね』  初春の声が、|真面目《まじめ》なものへと切り替わる。 「本物……という事は、やはり送り先は『|学舎《まなびや》の|園《その》』で正しいんですのね?」 『ええ』  初春の声に、白井は思考を巡らせる。  しかし荷札に書かれた|常盤台《ときわだい》中学の演算補助施設という建物は、存在しない。  元々、存在しない送り先を書いた時点で、この荷札は荷物を届ける事においては、何の役にも立たない。ならば、こういうメッセージを書いておく事で、何者かに何らかの暗号を伝える意味合いでもあるのかもしれない。 『ICチップ内の情報の解析も終わりましたよ。荷札に印刷された簡潔なコード類を補完するものですね。シャトルの機体番号と大気圏外での作業スケジュール番号です。共に学園都市のものです。第二三学区の記録と一致してますね。これはいよいよ危険な香りがしてきましたよ』 「第二三学区……。航空・宇宙開発のために一学区分を飛行場と発射場、及び関連施設で丸々独占した、一般生徒立入禁止学区の事ですわね」 『ええ。キャリーケースのマーク、ありましたよね。そうです、円の中に四角がいくつか入ってるヤツ。あれは第二三学区のエンブレムです。学校の校章みたいなものですね』  初春の声に、白井は舌打ちした。  どうしてもっと早く気づかなかったのかと思う反面、一般生徒に関係のない施設のエンブレムなんて|記憶《きおく》に残らなくても当然か、とも思う。どこか見覚えがあったのは、シャトル打ち上げのニュースか何かでチラッと見た事でもあったからか。 『荷札の送り主も第二三学区になってます。あそこは機密レベルが高いんで、それ以上の細かい施設名は記さない決まりになってるみたいですね』  白井は改めて荷札を見る。  日付は学園都市のシャトルが地上へ帰還した日時と合致。  そして荷主は第二三学区。一学区を航空・宇宙分野のために独占した、飛行場兼発射場。 (第二三学区は、一体どこの|誰《だれ》の元ヘキャリーケースを運ぶ予定でしたの……? そしてさらに、それを横から奪い取った、この連中は何者だと言うのですのよ……)  あれこれ考え事をする白井は、とにかく初春に礼だけ言っておこうと思い、 「ありがとうですの。後はキャリーケースとこの男|達《たち》を送る道すがらにでも考えてみる事にしますわ」 『あーっ! さっきも言いましたけど、ご|褒美《ほうび》はもらいますからね! 本物のお|嬢様《じようさま》によるお嬢様紅茶タイムとか! いや紅茶だけでなくお嬢様の持つ空間作り|雰囲気《ふんいき》作り込みで!!』  |初春《ういはる》が慌てたように言ったが|白井《しらい》は構わず通話を切った。  巻物をまとめるように、|超薄型《ちよううすがた》の本体が円筒の側面に巻き取られる。白井はそれを眺め、 スカートのポケットに収めつつ、さらなる思考を巡らせていく。  と言っても、白井は宇宙関係の専門的な知識や事情に詳しくない。  改めて考え直してみても、ここ最近で『宇宙』に関する出来事と言えば、学園都市を始め世界各国各機関がロケットやシャトルを相次いで発射している、あれが真っ先に思い浮かぶ。 「結びつけるのは……強引でしょうけど。でも……。まったく、何はともあれ、これの中身を見てみない事には結論は出せませんのよ」  ため息をついて、彼女はキャリーケースに腰をかける。  スーツの男|達《たち》も|謎《なぞ》だが、元々これを持っていた人間も謎だ。 「どちらにしても、これ以上考えるのはわたくしの仕事ではありませんわね」  適当に結論を出して、白井は|警備員《アンチスキル》が来るのを待った。道路状態の|影響《えいきよう》か、彼らはなかなかやって来ない。何の能力も持たない人達だから仕方がないか、と白井は不満にも思わない。  その時、不意に白井の携帯電話がまた鳴った。  白井は小さな画面を見ると、|御坂美琴《みさかみこと》と表示されていた。彼女は慌てて男達の方を振り返る。相変わらず気絶しているようだが、不用意に彼女との会話を聞かせてトラブルの種を作るのは|避《さ》けたい。しかし私事で現場を離れるのは問題だろう。白井は些細な抵抗策と自覚しながらも、口元に手を添えて|内緒話《ないしよぱなし》をするように携帯電話の通話ボタンを押した。 『あー、|黒子《くろこ》? ……なんか電波の状態悪そうだけど、アンタ今どこいんの?』 「え、え、えーっと。ちょっと守秘義務な感じの場所ですの」 『ん2 そっかそっか。まだ仕事中、か。ごめん、|邪魔《じやま》しちゃったみたいね』 「いえいえ。で、何か御用が?」 『いや、お仕事中なら無理にはいいや。なんか|寮監《りようかん》が抜き打ち部屋チェックする危険性が出丸きたって後輩が言ってたから、できればアンタに私物隠しておいて欲しかったんだけど』 「??? お姉様、今学生寮にいらっしゃいませんの?」 『うん。まあそういう訳だから。|他《ほか》の子に|頼《たの》んじゃうけどアンタの私物もまとめて片付けてもりっちゃってオッケーよね?』 「なっ、なん? 何ですって……ッ!! おね、お姉様が、わたくし以外の子を、|頼《たよ》りにして……? お待ちくださいですのお姉様! 一刻も早く寮へ向かいますゆえいい子いい子ぎゆーってしてあげましょうねの権利はわたくしにお|譲《ゆず》りくださいですわ!!」 『……|誰《だれ》もそんなぶっ飛んだ|褒《ほ》め方しないわよ。大体アンタ仕事でしょ。夜半に雨が降るかもって話だし、嫌ならとっとと自分のノルマを果たして帰ってきなさい。それじゃね』  一方的に切られた。  まるで置いてきぼりにされたように、|白井《しらい》はしばらく携帯電話を眺めていた。ごーん、と重たい効果音が頭の中に|響《ひび》いていたが、  カコン、と。  小さな足音が耳に入った。 (あー。そう言えば|戦闘《せんとう》に夢中で、立入禁止のテープ、張ってませんでしたわね)  白井はキャリーケースに腰を下ろしたまま、ぼんやりと考えていたが、  直後。  唐突に、白井の体重を支えている感触が消えた。ずるっ、と。まるで|椅子《いす》から転げ落ちるように、|一瞬《いつしゆん》だけ体の重さが消える。ぐるりと視界が回り、背中から汚い地面へ落っこちた。背中を軽く打つ痛みと共に、ビルとビルに区切られた四角い夜空を見上げる形になる。 (は……?)  とりあえず起き上がろうとして、ふと違和感を覚える。白井は辺りへ手を伸ばした。が、ない。今まで彼女が腰を掛けていたキャリーケースが、どこへ手を伸ばしても触れられない。  まるで、突然消えてしまったように。  まるで、空間移動でもしたかのように[#「空間移動でもしたかのように」に傍点]。 (空間、移動……)  突発的な事態に、白井の頭にはまだ空白がある。何らかの状況が進行しつつあるのは分かっていても、思考がそれに追い着いていない。彼女が漠然と、何か危機感のようなものだけを|掴《つか》み取った瞬間、  ドン! と。  仰向けに倒れる白井|黒子《くろこ》の右肩に、何かが食い込んだ。 「がっ……!」  |灼熱《しやくねつ》する痛み。体の中でブチブチと何かが|千切《ちぎ》れるような感触。耳ではなく、体内を直接通って響き渡る鈍い音。  目をやれば、|半袖《はんそで》のブラウスの布地ごと|皮膚《ひふ》に食い込んでいたのは鋭い金属だった。太い針金のような切っ先はバネのように渦を巻き、グリップは白い陶器のような素材でできている。 (ワインの、コルク抜き!?)  白井黒子は痛みで混乱しかけた頭を無理矢理平静に|留《とど》め、|空間移動《テレポート》を実行。移動距離はほんの数センチ、倒れている自分の体を九〇度垂直に移動させ、結果として一瞬で起き上がる。  ぼとぼと、と。重たい液体のこぼれる音が地面に響く。  それを楽しげに眺める視線が一つ。  |白井黒子《しらいくろこ》は路地の入口を改めて見る。  そこにいるのは一人の少女。  白井よりもやや高い背。髪は頭の後ろで二つに束ねてまとめてある。服装は学校の制服だが、冬服だ。青い|長袖《ながそで》のブレザーの袖に腕を通してなく、ただ肩にかけてあるだけでボタンも|留《と》めていない。ブレザーの下にブラウスはない。上半身は裸で、胸の所には|薄《うす》いピンク色の、インノーのような布を包帯っぽく巻いてあるだけだ。腰にもベルトがある。スカートを留めるためりものではなく、あくまで飾りだ。革ではなく、金属板をいくつも合わせて作ったタイプのべルトにはホルダーらしき輪があり、長さ四〇センチ強、直径三センチ程度の黒い金属筒が挿さっていた。警棒にも使える軍用の|懐中《かいちゆう》電灯だ。  高校生だと白井は適当に予想した。見た目の年齢などあてにならないものだが、中学生にとって高校生は一つの壁だ。何となく、見えない何かで自分|達《たち》とは同類の感じがしない。  その少女の|傍《かたわ》らには、白いキャリーケースがある。  ついさっきまで、白井が腰掛けていたはずの。 「やはり|空間移動《テレポート》!? でも」 (キャリーケースに|触《ふ》れられてはいませんわ。それとも、彼女自身が即座にわたくしの背後に|空間移動《ノレポート》し、キャリーケースごと元の位置に戻った? いや、それにしても……)  ただの|空間移動《テレポロト》にしては何かがおかしいと、白井の頭は警告している。  思考の中に埋没しかけた|白井《しらい》は、少女の笑い声で我に返る。 「あら、もうお気づき? |流石《さすが》に似た系統の能力者だと理解が早いわね。けど私は|貴女《あなた》とは少少タイプが違うの」  その声に、白井は|眉《まゆ》をひそめる。  似たような系統。少々タイプが違う。 「私の力は『|座標移動《ムーブポイント》』といったところかしら。不出来な貴女と違ってね、私の『移動』は、 いちいち物体を手で触れる必要なんてないんだから。どう、素晴らしいでしょう?」  淡々とした声。  彼女は、白井の背後で倒れているスーツの男|達《たち》をジロリと見下し、 「それにしても、使えない連中ね。使えないからキャリーケースの回収なんて雑用を任せたのに、それすらできないほど使えないだなんて予想外だったわ」  使えない。連中。回収。雑用。任せた。  白井はそれらの言葉から、この女がスーツの男達と関連のある人物だと推測する。  そして相手を警告するように告げる。 「わたくしを、|誰《だれ》だか分かっての暴挙ですの?」  彼女の身分を示す肩の腕章は、すでに傷口から|溢《あふ》れる血でどす黒く変色していた。 「ええ。分かっているから安心して仕掛けたのよ。|風紀委員《ジヤツジメント》の白井|黒子《くろこ》さん。そうでもなければ自分の手札を軽々とさらしたりはしないわよ」  キャリーケースの中身は不明。そもそも目の前の人物の意図も|掴《つか》めない。が、彼女にも分かる。傷ついた白井を見て笑う少女が、このまま|黙《だま》って白井を帰すつもりなどない事を。  敵。  そう、眼前にいるのは少女ではなく敵なのだ。 「チッ!!」  白井は両足を大きく広げる。反動で短いスカートが舞う。|露《あらわ》になった|太股《ふともも》には革のベルトが巻いてあり、そこには十数本の金属矢が差し込んである。さながら、西部劇のガンマンのベルトに収まっている銃弾のように。それは彼女の奥の手だ。|空間移動《テレポート》を使って、|瞬間的《しゆんかんてき》に標的の座標へ金属矢を送り込む事で敵を貫く必殺の矢。  しかし、白井より先に少女の方が動いた。  羽織っているだけのブレザーの内側にある細い手が、腰の金属ベルトに挟んである軍用|懐中《かいちゆう》電灯を一息で引き抜いた。彼女はその軍用ライトをくるりと、バトンのように手の中で一回転させて白井の方に向けると、ほんの少しだけ、先端をひょいっと上に向ける。まるで、手招きするように。  変化が起きる。  白井が倒し、拘束したはずの男達が|虚空《こくう》へ消え、少女の眼前へ転移したのだ。意識を失ったまま空中に投げ出された一〇人の男|達《たち》は、それこそ盾のように展開される。  が、 「甘いですわよ!!」  |白井《しらい》は構わず|太股《ふともも》に収めた金属矢を発射。音もなく空間を渡った無数の矢は、直線的な距離を無視して———つまり間にいる男達を素通りして———ダイレクトに少女の立ち位置の座標に出現する。|狙《ねら》いは少女の両肩と両足。関節は狙わず|丁寧《ていねい》に|攻撃《こうげき》を放つ。  |空間移動《テレポート》は直線ではなく点と点の移動だ。間に人質を取られようが問題はない。そして|虚空《こくう》から少女の体内に出現した矢は、内側から直接その柔らかい肉を突き破る。彼女の攻撃に、物体の区別はない。|空間移動《テレポート》は基本的に、『移動する物体』が『移動先の物体』を割り裂いて出現するようにできているからだ。  だから、白井の攻撃は少女の体を貫かなければおかしい。  けれども、 「あ」  白井は思わず声をあげる。  バラバラと、空中に投げ出された男達が重力に引かれて地面へ崩れ落ちた後。  少女は、そこにいなかった。  ほんの三、四歩、後ろに下がっていた。白いキャリーケースに腰を掛け、優雅に足を組んで。彼女はケースに座ったまま、車輪を滑らせるように、足で地面を|蹴《け》ったのだ。  白井の放った無数の矢は、ただ何もない空中に浮いて、それからバラバラと下へ落ちていく。まるで、意識を失った男達と同じように。  |空間移動《テレポート》は点と点の移動。その座標からわずかでも標的が移動すれば攻撃は当たらない。男達は装甲としての盾ではなく、白井の目測を狂わせる目隠しとして使われたのだ。  少女はキャリーケースの上で足を組んだまま、手にした軍用ライトを動かす。その先端で落ちた矢を指し、次に|釣竿《つりざお》を上げるように振って。  白井が放ち、力なく地面に落ちた矢の一本が虚空へ消え———少女の空いた手の中に現れる。 (|来《く》————ッ!!)  身構える白井に対し、少女はサイドスローで金属の矢を放つ。|空間移動《テレポート》(少女が言うには|座標移動《ムーブポイント》か)を使わない、三次元的な直線の飛行ルート。ただしその矢は、|真《ま》っ|直《す》ぐ正確に白井の体の真ん中を狙っている。  狭い路地では左右には逃げられない。  壁の向こう、ビルの中に|空間移動《テレポート》で逃げ込むという手もあるが、内部の様子が分からないので不用意には使えない。うっかりビル内の人と重なるような座標で|空間移動《テレポート》したら大惨事になる。  かと言って、真っ直ぐ進む矢に対して後ろに下がっても何の意味もない。  なので、|白井《しらい》は前へ|空間移動《テレポート》した。矢を追い越して、少女の眼前へとワープする。そのまま|拳《こぶし》を握った。向かってくる|攻撃《こうげき》を|避《さ》け、なおかつ目の前の敵を|殴《なぐ》り飛ばす、カウンター気味の攻撃を加えようとして、  どすっ、と。  白井|黒子《くろこ》の|脇腹《わきばら》に、背後から金属の矢が突き刺さった。 「……あ……ッ!?」  白井は体の|芯《しん》から|湧《わ》き起こる|震《ふる》えのようなものを感じた。それに耐えられなくなったように、全身から力が抜けていく。両足がカクンと折れて、そのまま地面に倒れ込んだ。  奇しくも、キャリーケースに腰をかける少女の足元に屈するように。 「言ったでしょう?」  腰をかけたまま、足を組み直し、少女は|微笑《ほほえ》む。 「私の|座標移動《ムーブポイント》には、|貴女《あなた》みたいに物体に手を触れる必要なんてないって」  白井黒子は|嘲《あざけ》るような声に対し、しかし顔を上げる事もできない。  簡単な理屈だった。  少女はまず最初に、金属の矢を自分の手で投げた。そして白井がそれを避けると同時に、今度は空中に飛んでいた矢を|座標移動《ムーブポイント》させたのだ。白井の背中の内側[#「背中の内側」に傍点]に出現するように。  器用に一八〇度方向転換させた金属矢は飛行の勢いを殺さず、白井黒子の体内を、さらに腹 方向へと突き進んで、ようやく停止する。ゴリゴリという嫌な音が体の|芯《しん》に|響《ひび》き渡った。  ヒュンヒュン、と空気を裂く音が連続する。  気がつけば、少女の空いた手には、白井が落とした金属の矢が、|全《すぺ》て握られていた。 「残念ね。貴女、|常盤台《ときわだい》中学の人間でしょう。|御坂美琴《みさかみこと》の|奴《やつ》、切羽詰まっているとはいえ、私事に部下や後輩を巻き込むような人間とは思えなかったんだけど。まあ、『実験阻止』にしても一人で片をつけた訳でもないし、もはやどうでも良くなっているのかしら」  その言葉に、白井黒子の体がピクリと震えた。  痛みで震え、感覚の消えかけた体がそれとは別の揺らぎ方を見せる。 「なん、ですって?」  首に意識を注ぐ。顔を上げる。歯を食いしばって、全力を振り絞って、地の底から天の上を振り仰ぐように。 「|何故《なぜ》、そこで……お姉様の名前が、出てくるんですの?」  白井の声に、少女はいちいち答えようとする。  まるで、傷ついた白井などもはや脅威に感じる必要などないと嘲るように。悔しがる白井の姿を見て楽しむためだけに、論理的に最適な選択すら切り捨てて|無駄《むだ》な楽しみを求める。 「あら」少女は足を組んだまま、冗談みたいに口に片手を当てて、「知らなかったの。知らないまま利用されてるという線は……なさそうね。|常盤台《ときわだい》中学の超電磁砲はそんな人格していないでしょうし」  少女は|白井《しらい》の問いに答えていない。  残る力を絞りつくして放った質問に、しかし返ってくるのは自己満足のような語りだけ。 「都合が良いとは思わなかった? これを盗んだウチの使えない連中が、まるでタイミングを計ったように渋滞に巻き込まれた事とか。信号機の配電ミスって、何が原因だったか予想できなかった[#「何が原因だったか予想できなかった」に傍点]? まさか、あの常盤台中学のエースが、一体何を|司《つかさど》る超能力者なのかも知らないな んて事はないわよね」  白井|黒子《くろこ》は届かぬ頭上を|睨《にら》みつける。  正体不明のキャリーケースと、その上に君臨する敵を。 「さっき、から……」  血でも吐きそうな声と共に、|貼《は》り付く唇を動かす。  |美琴《みこと》に借りたリップが、不思議とベタベタした感触を返してくる。 「……何を、言って……」 「『レムナント』って、言っても分からないわよね。『シリコランダム』でも難しいかな」  少女は愉快そうに、手の中の金属矢をカチャカチャ鳴らして答える。 「そうね。『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』の|残骸《レムナント》って言ったら分かるかしら? |壊《こわ》れてなお、朽ちてなお、|莫大《ばくだい》な可能性の残されたスーパーコンピュータの|演算中枢《シリコランダム》って言えば」  白井黒子はギョッとした。 「ば、かな。だって、あれは、今も衛星軌道上に浮かんでいるはずでしょう……?」  |馬鹿馬鹿《ばかばか》しくて現実味が|湧《わ》いてこない。|何故《なぜ》なら、学園都市が誇る世界最高のシミュレートマシン『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』は人工衛星に搭載して宇宙に保管されているのだ。それをどうにかしようとした所で、地面に張り付いている限り絶対手にする事はできない。大体、あれが故障した(あるいは|破壊《はかい》された)となれば、大々的に報道されなければおかしいのだ。  だが。  少女が腰掛けているキャリーケースは、宇宙船外での使用を目的に作られたものだ。  そしてキャリーケースの荷札は、学園都市のシャトルが帰還した日のものだ。  現在、まるで競い合うように世界中の機関が宇宙へ進出しているのは。  思考が揺らぐ白井に、少女はスカートのポケットから取り出した一枚の写真を指で|弾《はじ》いた。まるでフリスビーのように回転する写真は、白井の目の前に落ちる。 「学園都市の|撃墜《げきつい》レポートの添付資料というヤツよ。レアでしょう?」  その写真は、真っ黒な宇宙空間に、巨大な地球が写っているものだった。|緩《ゆる》いカーブを描く青い星を背に、バラバラに砕けた人工衛星の|残骸《ざんがい》が浮かんでいる。ニュースやパンフレットなどで見た事のあるシルエットが。 「そ、んな」  |白井《しらい》が|唖然《あぜん》としている前で、写真は|虚空《こくう》に消えた。ピッ、と少女は人差し指と中指で写真を 挟んでいる。『|座標移動《ムーブポイント》』とやらで回収したのだろう。 「『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』はとっくに破砕されているのよ。だからこそ皆は、|壊《こわ》れて衛星軌道上に漂っている『|残骸《レムナント》』を欲しているの」少女は白井の顔から何かを読み取って、「|御坂美琴《みさかみこと》も大変でしょうね。何者かが『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』を|破壊《はかい》してくれたから悪夢は終わっていたのに、それを再び修復されそうだって言うんだから。そんな事になれば『実験』が繰り返されてしまうわね。だから、まあ、必死にあがく気持ちは分からないでもないけど」  少女の口から再び一つの名前が出て、白井の腹筋に力が入る。  御坂美琴。  |何故《なぜ》そこで彼女の名前が出てくるのか、と白井は思う。思うが、思い当たる節はない。状況が何一つ|呑《の》み込めない中、しかし白井はより一層眼光を強くして少女を|睨《にら》みつける。そもそも、こんな危険人物の口から御坂美琴の名前が出てきただけで十分に問題なのだ。 「うふふ。あらあら、すっかり|蚊帳《かや》の外って感じね。その分だと『実験』についても何も知らないみたいね。けれど、|貴女《あなた》はその断片を|覗《のぞ》いているはずよ。例えば……そうね。半月前に操車場でひどい爆発が起きたでしょう? 当時は列車が全線|停《と》まって大きな|騒《さわ》ぎになったと思うけど。あれだけの事態から、一週間足らずで列車の運行ダイヤを元に戻せた貴女|達《たち》の手腕に、私はかなり感心していたんだけど」  少女は愉快そうに言うが、白井には答えられない。  白井の頭をジリジリと焼くような|焦《あせ》りが|襲《おそ》いかかる。しかし、それでもやはり少女が何を言いたいのか理解できない。 「まだ分からないの? これだけ言っても分からないのかしら。八月二一日。この特別な日に貴女の周りで何か変わった事とかはなかった?」  そんな事を言われても、漠然と日付だけ言われた所で、白井には上手くイメージできない。そもそも、先月の二一日など、特別な祝日でも何でもないのだ。 (さっきから……何を? 会話をしようと思うだけ、|無駄《むだ》という事ですの……?)  白井は|詩《いぶか》しむが、それにしては少女の言葉にはある種の法則性があるようにも聞こえる。 「そうね。貴女がここまで|辿《たど》り着いてこれたなら、私は貴女とお友達になってあげても良かったのだけど、ね」  そう言って笑う少女に、しかし白井は答えを返す余裕もない。  唇が乾き、浅く裂けて血の味がこぼれる。  それでも、分かるのは二つ。  目の前の少女を、今ここで止めなければならないという事。  キャリーケースの中身を、|誰《だれ》かの手に渡してはならないという事。  |白井黒子《しらいくろこ》はスカートの中、|太股《ふともも》のベルトに挟んである、わずかな本数の矢を|全《すべ》て片手で引き抜く。数は二本。それを握り|潰《つぶ》すほどの意識で|掴《つか》み、己を鼓舞するために天に向かって意味なき言葉を叫び放つ。  対して、少女は最後までキャリーケースから腰を上げない。優雅に足を組んだまま、手の中に余る無数の矢をカチャカチャと|弄《もてあそ》び、警棒にも使える軍用|懐中《かいちゆう》電灯のスイッチを入れ、バトンのようにくるくると回して光の輪を作りながら、足の下で|這《は》いつくばってあがきもがく弱者を心優しく見下し|嘲《あざけ》る。  |一瞬《いつしゆん》の静寂。  路地の出口の先、表通りから|響《ひび》く車のエンジン音。  それを合図に、二人の少女の姿が同時に動いた。  勝負が決するのに一秒も必要ない。  無数の金属矢が飛び交い、|乙女《おとめ》の|澄《す》んだ鮮血が飛び散り、絶叫が飛び立つ。  どす、と汚い布袋を落とすような音と共に、白井黒子は地面を転がった。  風が吹き、|追撃《ついげき》はなく、路地には|風紀委員《ジヤツジメント》を残して、もう一人の少女は去って行った。  |座標移動《ムーブポイント》など使わず、足音を鳴らすのを楽しむように。  白いキャリーケースと共に。 (お、ねえ、さま……)  悔しさに、少女は奥歯を|噛《か》んで心の中で|詫《わ》びる。とてもではないが、口には出せない。  やるべき事は分かっていたのに。  未熟な白井黒子には、何[つそれらを達成できなかった。 [#改ページ]    行間 二  病院には入院患者のためのお|風呂場《ふろば》がある。  緑色のジャージを着た体育教師、|黄泉川愛穂《よみかわあいほ》はお風呂のドアに背を預けていた。ジャージを着ているのがもったいなく思えるほど美人でスタイルの良い大人の女性だ。特に前面に張り出した胸は単なるジャージにすら絶大な色気をまとわりつかせている。本人がその価値に全く気づいていない辺りが、逆にさらなる危うい無防備さを演出していた。 (あー、|桔梗《ききよう》の野郎め。また妙な問題を押し付けてきやがってじゃん)  昔|馴染《なじ》みで現在入院中の女性研究者の顔を思い出して彼女はため息をつく。その研究者はまだ安心できる容態ではない。黄泉川は一度だけ面会を許された際、女性研究者から、ある子供|達《たち》の面倒を見るようにとだけ|頼《たの》まれた。頼むだけ頼んで|依頼人《いらいにん》はさっさと意識を落としたのだから、黄泉川としては詳しい事情も聞けなかったし断りようがない。  預けられたのは特殊な能力者のコンビらしい。  その子供達の声が、ドアの向こう———お風呂場の中から聞こえてくる。 『ばしゃばしゃばしゃばしゃーってミサカはミサカは狭いお風呂の中でバタ足してみる。小っこい体を有効利用した屋内レジャーかも、ってミサカはミサカは新たな可能性を提示してみたり』 『チィッ、お湯が顔に……ッ! オマエ風呂の中で自由自在に泳ぎ回ってンじゃねェよ!!』 『「反射」が使えないと不便だね、ってミサカはミサカは気の毒そうな視線を向けてみたり。それにしてもシャンプーが目に入って涙ぐむ最強の能力者ってどうなの、ってミサカはミサカは|呆《あき》れてみる』 『別に「反射」がまったく使えねェ訳じゃねェよ。まァお前らのネットワークを利用して演算処理してっからでかい顔はできねェけどな。ただな、ここで「反射」使っちまったらお湯まで肌から|弾《はじ》いちまってそもそも風呂場に来る意味がねェだうがよォ。……あと涙ぐンでねェよ別に目に入ったって痛くねェよ確かにシャンプーが目に入るのはこれが初めてだけどよォ!』 『ばしゃばしゃばしゃばしゃー』 『ヨミカワァァあああああああああ!! 何でこの|俺《おれ》がクソガキのバタ足|攻撃《こうげき》なンざ食らわなきゃなンねェンだよォォォ!!』  お、会話が振られてきた、と黄泉川は|眉《まゆ》を上げて、 「ダメじゃーん。小さい子供の場合はお風呂で|溺《おぽ》れる危険もあるんだから。|誰《だれ》かが監督してあげないと危ないじゃんよ」 『じゃあオマエが監督すりゃ良いだろオがよォ!!』 「ダメじゃーん。そんな暴れん坊の相手してたら|黄泉川《よみかわ》さんは|濡《ぬ》れ濡れの透け透けになっちゃうじゃんよ。ってか、ようやくお|風呂《ふろ》に入れるようになったんだから、ちゃんと体は洗っとけ」 『クソッたれが……ッ!! どォして|俺《おれ》の周りには、まともに人の話を聞こうっつー思考パターンを持った人間が一人もいねェンだっつの』 『まぁまぁまぁまぁ、ってミサカはミサカはなだめてみたり。気恥ずかしいのは分かるけどミサカはミサカはちゃんとバスタオル装備してるんだから。あんまり意識すると逆にキツイぞ、ってミサカはミサカは人生の先輩としてアドバイスを贈ってみる』 『ありがとよォ。お礼に顔面ヘダイレクトにシャワーをかけてやンよ』 『ぶわーっ!? ってミサカはミサカは突然の|攻撃《こうげき》にひっくり返ってみたり! ひどいよ夏の終わりにはミサカのために体張って立ち上がってくれたのにってミサカはミサカは顔を真っ青にしてみたり』 『はァ? ……って、ちょっと待てコラ』 『ウィルスコードにやられかけた時はあんなに優しかったのにこの扱いは何なのもしかしてもうミサカ飽きられてる!? ってミサカはミサカは|戦標《せんりつ》の可能性にぶるぶる|震《ふる》えてみたり!』 『……、あ? オマエ、今なンつった? ……ウィルスコード「漢字[#「ウィルスコード」に傍点]?』 『しまった、ってミサカはミサカはお口に片手を当ててみたり』 『しまったじゃねェよどオいう事だオイ! 何でオマエがあの日の事を覚えてンだ!?』 『えーっと、ってミサカはミサカはほっぺたを人差し指でかいてみたり』 『オマエ頭ン中のウィルスコードを修正した時に|記憶《きおく》も全部失ってたンじゃねェのかよ!?」 『ミサカは|検体番号《シリアルナンバー》一〇〇三二号から|検体番号《シリアルナンバー》二〇〇〇〇号が織り成すネットワークの中で記憶を共有してるの、ってミサカはミサカは真実を告げてみる』 『……、ほォ』 『簡単に言うとミサカ単体の記憶がなくなってもバックアップがあるから問題ないかも、ってミサカはミサカは|可愛《かわい》らしくぺろっと舌を出してみる。ミサカの記憶はないけどミサカ|達《たち》からもう一度記憶を吸い出せば修復はできるし、ってミサカはミサカは様々な仕草を駆使して少しでも怒りを|和《やわ》らげるべく|孤軍奮闘《こぐんふんとう》してみたり』 『じゃ……ナニか? オマエは俺があの日に何を叫ンだか……』 『「確かに俺は一万人もの|妹達《シスターズ》をぶっ殺した。だからってな、残り一万人を見殺しにして良いはずがねェンだ。ああ|綺麗事《きれいごと》だってのは分かってる、今さらどの口が言うンだってのは自分でも分かってる! でも違うンだよ! たとえ俺達がどれほどのクズでも、どンな理由を並べても、それでこのガキが殺されても良い理由になンかならねェだろォがよ!」……じーん、ってミサカはミサカは思い出し泣きしてみる』 『こ、殺すー このガキぶっ殺す……ッ!!』 「ダメじゃーん。知り合いから任されてるんだから手間かけさせるなよI?」  ばっしゃばっしゃと互いにお湯を掛け合っている音をドア越しに聞きながら、|黄泉川《よみかわ》は適当に言葉を放つ。カエルに似た顔の医者からは、気難しそうな二人だね? とか言われたが別段気にかかるような点は見当たらない。  この分なら無理に付き添っている必要もなさそうだ。本来の仕事へ戻れる「漢字[#「本来の仕事へ戻れる」に傍点]。  黄泉川はため息をついて、ドアから背中を離した。 「お二人さんへ伝言じゃん。ちょっくらお姉さんは|警備員《アンチスキル》の仕事へ行ってくるから仲良く待ってるように。いい子にしてたら熔|土産《みやげ》持ってきてやろうじゃん」 『はーい、ってミサカはミサカは必殺バタ足|攻撃《こうげき》で大量のお湯をぶちまけつつ答えてみたり』 こンのクソガキがアァああ!!という叫び声に背中を向けて、黄泉川|愛穂《あいほ》は足元に置いてあった大型のスポーツバッグの|紐《ひも》を肩にかけて病院を後にした。  その目に宿る眼光は鋭く。  バッグの中身は、|警備員《アンチスキル》の正規装備でズシリと重い。  黄泉川がいなくなった後、湯船のお湯という|莫大《ばくだい》な資産を使い果たした二人は停戦協定を結んでいた。 『クソったれが。ヒザ上までしかお湯が残ってねェぞ……』 『もはやバタ足すらできないかも、ってミサカはミサカはそれでも工夫次第で何とかならないかと首をひねってみたり』 『もオバタ足やめろ。っつかオマエは|俺《おれ》が|怪我人《けがにん》だっての忘れてねェか!?』 『そう言えばメチャクチャな速さで髪の毛伸びたからもう手術の|痕《あと》とか分かんないね、ってミサカはミサカは感心してみる。ってか体内の組織に伝える電気信号のベクトル面から再生を|促《うなが》すって反則では、ってミサカはミサカは人体の神秘に目をキラキラさせてみたり』 『っつっても|頭蓋骨《ずがいこつ》の|亀裂《きれつ》までは完全に修復できてねンだっつの!!』 『ばしゃばしゃぶくぶく|蹴《け》り蹴りー』 『……、』 『こんなにお湯の|無駄遣《むだつか》いした事をヨミカワに知られたら怒られるね、ってミサカはミサカはぶるぶる|震《ふる》えてみる。でもヨミカワは今日はもう病院には戻ってこないかも、ってミサカはミサカはちょっと楽観してみたり』 『あァ? オマエ何か聞いてンのかよ?』 『んーとね、ヨミカワの方からじゃなくてね、ってミサカはミサカは———』 [#改ページ]    第三章 残骸が秘める光 “Remnant”      1  |常盤台《ときわだい》中学の学生|寮《りよう》は『|学舎《まなびや》の|園《その》』の中と外に、それぞれ一つずつ存在する。  |白井黒子《しらいくろこ》や|御坂美琴《みさかみこと》の部屋は、『外』の学生寮にあった。 「か…はっ……!?」  体を引きずるように寮の裏までやってきた白井は、そこで危うく血の塊を吐きかけた。口の中に尾を引く味を強引に飲み込んで前へ進む。一刻も早く手当てしなければならないのに、体が思うように動かない。苦痛のせいか|空間移動《テレポート》も力の大小の揺れ幅が大きく、あまりアテにならなかった。  右肩、左|脇腹《わきばら》、右|太股《ふともも》、右ふくらはぎ。  数ヶ所に突き刺さる鋭利な金属は、衣服の布地を|噛《か》んで、それを強引に傷口の中にねじ込んでいる。一歩動くごとに衣服と|皮膚《ひふ》が妙に突っ張った感触を返し、それが痛みと共に奇妙な違和感を頭に|叩《たた》き込んでくる。  |薄《うす》っぺらなカバンが、バーベルのように重たく感じられる。  それだけ体力を失っているのだ、と実感し、白井の腹に冷たい|戦標《せんりつ》が落ちる。  寮の裏まで回った白井は、ずらりと並ぶ窓を見上げ、自分の部屋の|灯《あか》りが消えている事を確 認する。 (良かった……。お姉様は、まだ、帰って、らっしゃら、ない……)  白井は薄く薄く笑みを作り、それから体の中心で力を集中する。  このボロボロの姿で、正面から寮に入る訳にはいかない。痛みと|震《ふる》えと|焦《あせ》りでズタズタになった計算式をかろうじて|繋《つな》ぎ止め、白井黒子は自分の部屋へ直接|空間移動《テレポート》する。  |一瞬《いつしゆん》だけ身にまとう無重力感。  空間から空間へ渡るその感覚は、身軽になるというより身を投げ出すような危機感に近い。絶叫マシンに乗った時のように、胃袋の辺りから重たい|緊張《きんちよう》がせり上がって来る。 「……っつ」  無事に真っ暗な部屋に降り立った白井は、灯りも|点《つ》けずに部屋の中をうろついた。彼女が集めているのは応急セットに替えの制服だ。下着は夕方買ったものを使う事で作業を少しでも短縮しようと思う。カバンの留め具を外し、中からランジェリーショップの紙袋を取り出す。  白井はそれらを抱えると、ユニットバスのドアを開けて中に入る。こちらは窓がないため、一切の光がない|暗闇《くらやみ》が広がっている。|白井《しらい》はドアを閉めてから、手探りでスイッチを押した。パチン、という音と共に、蛍光灯の白い光が狭いバスルームを満たしていく。 「あ……ぐ……ッ」  手の中から力が抜け、持っていた物が|全《すべ》て硬い床の上に落ちる。壁に背中を預けようとして、|脇腹《わきばら》を貫いた矢の最後部が壁を引っ|掻《か》いた。まるで電気でも浴びたように体が|震《ふる》え、バランスを崩して床に倒れ込む。さらに様々な激痛が体内で|炸裂《さくれつ》する。 (はち、がつ。にじゅう、いち、にち)  痛みで頭が上手く回らない。それでも白井は床に座り込んだまま、考える。あの女は言っていた。八月二一日に、何か変わった事がなかったかと。 (確か……お姉様は夜遅くまで帰って来なくて……。そして、あの殿方[#「あの殿方」に傍点]が突然、学生|寮《りよう》にやってきた日ですの……)  一つ浮かべば、次々と情報は引きずり出されていく。 (あの殿方は、いつの間にか寮から消えていて……ああ、そうですの。お姉様のベッドの下から、くまのぬいぐるみが引っ張り出されたままで、そして街中に原因不明の暴風が吹き荒れたり、学園都市の外れの工業地帯、あそこにある操車場で何らかの爆発や、|凄《すさ》まじい|閃光《せんこう》が|目撃《もくげき》されたという話も……)  そして、その日を境にあるウワサが街中に流れ出した事をようやく思い出した。  白井は思わず顔を上げる。 (学園都市最強の|超能力者《レベル5》が、何者かによって倒されたっていう未確認の情報が……ッ)  確かあの話は、学園都市統括理事会が無用な混乱を招くとして、すぐさま情報管制が|敷《し》かれたはずだ。そのため、具体的に『|誰《だれ》が』最強の|超能力者《レペル5》を倒したのかは、白井の耳には入って来なかった。  巨大な爆発、閃光、そしてM7クラスの強大な暴風。舞台となったと思われる操車場は、まるで爆心地のような有様だった。復旧作業は|警備員《アンチスキル》主導で行われたが、|風紀委員《ジヤツジメント》の白井も手伝いとして参加した。その時、皆で口を|揃《そろ》えて言ったものだ。  確かに、この|破壊《はかい》の|爪痕《つめあと》は並大抵のものではない。  それを引き起こした|超能力者《レペル5》は、やはり学園都市で最強の存在なのだろう。  だが。  これだけの大惨事の中、その|超能力者《レベル5》に平然と立ち向かった者はどれだけの力を秘めていたのかと。 (さらに、ですの……)  白井は、それとは別に、独自にある一つの情報を手に入れていた。 (……もしかすると、その二人の能力者の|決闘《けつとう》の場に、お姉様が立ち会っていた可能性がある)  白井|黒子《くろこ》は見たのだ。  操車場はたくさんの貨物コンテナが|破壊《はかい》され、中身がばら|撒《ま》かれていた。種々様々な|残骸《ざんがい》が 散らばる現場では、|誰《だれ》も一枚のコインなど気に留めなかったが、|白井《しらい》だけは違う。  拾ってみれば、良く分かった。  それはゲームセンターで使われるような、安っぽいコインだ。  同時に、とある少女が|超電磁砲《レールガン》の弾丸として好んで使うコインでもある。  そこまで考えて、白井は激痛に思考を寸断された。確かに八月二一日は、普通の日ではなかったようだ[#「普通の日ではなかったようだ」に傍点]。けれどそれが、今回の件に何がどこまで|関《かか》わっているのか、彼女には取捨選択ができない。  とにかく傷の手当てが先だ、と彼女は割り切る。  白井は右肩に突き刺さった——一番初めに|奇襲《きしゆう》を受けた———コルク抜きを指で軽く触れた。渦を巻いた太い針金のような鋭い金属は、普通に引っ張って抜けばさらに筋肉を引き裂いた事だろう。だが、 「まったく。こういう時は……役に立つ能力ですわよね」  |空間移動《テレポート》を実行。突き刺さっていたコルク抜きが|虚空《こくう》へ消え、代わりに白井の目の前に現れた。支える物のない刃物は|真《ま》っ|直《す》ぐ床に落ちて、|澄《す》んだ音色を|響《ひび》かせる。  肩から血が|溢《あふ》れた。  傷口から栓を抜いたため、新たに血が流れ出したのだ。  今まで傷口から金属矢などを抜かなかったのは、抜いた後、早急に止血するための準備ができていなかったからだ。 「……ッ!!」  ぐらりと揺らぐ意識を、首を振って無理に取り戻す。床に落ちた血まみれのコルク抜きを見て舌打ちした。 (シェフィールドのオープナーに、グリップにはマジョリカ陶器……。生産地も歴史も伝統も思想も|拘《こだわ》りもお構いなしの|無国籍《むこくせき》っぷりですの。とんだ成金と遭遇したものですわ)  白井は|脇腹《わきばら》や足に刺さった金属矢も同様に|空間移動《テレポート》で外していく。そうしながら、空いた手で携帯電話を操作した。掛ける番号は|初春飾利《ういはるかざり》のものだ。 『どもどもー。初春です。白井さん、とりあえず注文の調べ物はしておきましたけど……って、うわ。なんか聞くからに痛々しい吐息してますね』  実は初春には|寮《りよう》に帰る前に一度電話を掛けていた。そこで白井が負けた事、キャリーケースも再び奪われてしまった事、『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』についての情報を集める事、|空間移動《テレポート》系能力者がいたので素性を調べる事、|空間移動《テレポート》系能力者が相手だと逃走ルートの特定は難しいが可能な限り追跡する事などを|頼《たの》んでいた。  ついでに、白井が負傷した事も周りにはできるだけ伏せておくように、とも付け加えておいた。そうでもしないと、白井に対して別の所から妨害が入る可能性があるのを知っていたからだ。  学生主体の|風紀委員《ジヤツジメント》よりも、教員主体の|警備員《アンチスキル》の方が重要な仕事に就く。  子供を危険にさらす訳にはいかないというのと、子供にそれほどの危険を|蹴散《けち》らすぐらいの巨大な力を持たせる訳にはいかないという二つの意味を持つ。  ここまで派手に負傷すれば、学園都市側は|白井《しらい》の活動を制限するだろう。しかし、あの|空間移動《テレポート》能力者は|常盤台《ときわだい》中学のエースがどうとか|御坂美琴《みさかみこと》がこうとか、気になる事を言っていた。  従って、白井はここで簡単にリタイアする気はなかったのだ。 『本当に|大丈夫《だいじようぶ》なんですか? 女の熱血なんて|流行《はや》りませんよ』 「余計な、お世話ですの。それで、調べはつきましたの?」  血まみれの金属矢を床に捨て、白井は傷だらけの体を動かして衣服に手をかけた。サマーセーター、|半袖《はんそで》のブラウス、スカートのホックを外して脱ぎ捨て、そこで舌打ち。下着もじっと りと赤く|濡《ぬ》れているのに気づいて、それらもまとめて脱いで床に放る。土足のままだったので革靴も脱ぎ、靴下も取り、金属矢のホルダーとして使っていた|太股《ふともも》の革ベルトも外して、丸裸になると改めて傷口を確認する。 『まず|空間移動《テレポート》能力者ですけど、|書庫《バンク》に検索かけた結果、学園都市には白井さん含めて五八人ほどいるみたいです。|流石《さすが》は一一次元特殊計算式応用分野、レアですよね』 「わたくしの、|目撃《もくげき》情報と、合致する相手は?」  白井は血に濡れた手で応急キットの四角い箱を引き寄せる。 『一度に複数の物体を移動できる能力者は一九人。やはり、白井さんも当てはまります』  さらに、と|初春《ういはる》は続けて、 『白井さんに教えてもらった犯人の容姿に合致しそうなのは、三人ほどって所です。ですが、 その内でアリバイがないのは一人だけですね。残りの二人は、こちらのカメラに映像が残っています』  初春は大して慌てた様子もなく、結論を告げる。 『|霧ヶ丘《きりがおか》女学院二年、|結標淡希《むすじめあわき》。白井さんと同じ|空問移動《テレポート》系の使い手ですが、少し仕組みが違うようです』 「それは、そうでしょうね……。何しろ、一度に、一〇人もの男|達《たち》を移動させて、盾にしたんですのよ? 重量は、ざっと七〇〇キロ前後かしら。わたくしの、力とは、段違いですわ」  白井は自分の弱さを否定しない。その先に活路があると信じる限りは。  応急キットの箱を開け、中からチューブ状の物を取り出した。|蓋《ふた》を開け、チューブを押し、出てきたジェルを傷口に押し付ける。消毒と止血、開いた傷口を閉ざす三つの効能をまとめた非常用の対外傷キットだ。|冥土帰《ヘヴンキヤンセラー》しとかいう異名を持つ優秀な|医療《いりょう》研究者の手によるものらしいが、一般には出回っていない。大抵の傷はこれで|塞《ふさ》げるが、逆に細かいイレギュラーな事態には対処できない一品でもある。このキットで効果がないようなら医者の出番だ。 『それもありますけど、根本的な部分が違います。白井さんは「自分の触れたモノを離れた所へ飛ばす、つまり自分の体という始点0にある物体を座標Aへ送る」|能力者《テレポ−ター》ですが、|結標《むすじめ》の場合は「離れた所にあるモノを別地点へ運ぶ、つまり座標Aにある物体を座標Bへ送る」|能力者《テレポーター》なんです。結標の場合、|白井《しらい》さんと違って「始点」が固定されていないんですね』 「それで……あの女。|座標移動《ムーブポイント》能力者と名乗っていたんですのね……」  白井はわずかに唇を|噛《か》んで考える。  確かに結標は手で触れなくても様々な物体をあちこちへ移動させていた。しかしそれでいて、白井|黒子《くろこ》本人の体には能力を使って干渉していない。もしもそれが可能なら、飛び道具なんて回りくどい方法よりも、白井の体を直接壁にでもめり込ませただろう。そちらの方が確実だ。 『面白い実験データがありますよ。何でも、結標の力は似た系統の能力者は|空間移動《テレポート》させられないそうです。AIM関連は分野そのものが未発達であるため詳細は不明ですが、どうも同系統のAIM拡散力場は結標の能力の|邪魔《じやま》をするらしいです。———このレポートでは、結標だけでなく、|空間移動《テレポート》系の能力者は一般的に同系列の能力者を移動できない、と定義されてますけど。白井さん、どうなんですか?』 「知りませんわよ。わたくしだって同系列の人間とは初めて会ったんですから」  ふん、と白井は鼻を鳴らす。  実際に試した事はないが、大体の予想はできる。|空間移動《テレポート》能力者は、三次元的な『見た目の位置』ではなく、一一次元上における自分の絶対位置座標を常に頭に入れて行動している。|空間移動《テレポート》能力者が同系列の能力者の座標をずらそうとしても、その『位置座標情報』が|楔《くさび》のよフな役割を持って阻害するのだろう。 『あとはつまんない実験データもあります。結標|淡希《あわき》は二年前の|時間割り《カリキユラム》の中で、自分の力を暴走させて|大怪我《おおけが》を負っているみたいです』 「……、本当に、つまらないデータですわね。しかも、弱点らしきものは何一つ浮かび上がってきてませんし。まったく、あんな怪物がどうして|大能力《レベル4》止まりなんですのよ」  そう考える間にも、白井は破れたスカートのポケットからティッシュを取り出し、傷口の周りに付着した血を|拭《ぬぐ》っていく。柔らかな弾力を返す己の肌は、不思議と少し冷たくなっていた。『|超能力《レベル5》認定受けた相手にも、やり方次第では互角以上に戦えそうって思えるんですけどね。なんか欠点でもあるのかもしれません』携帯電話は気楽なものだ。『次に、「|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》」の件なんですけど……』 「結標の血迷った寝言だと信じたいのですけれど、その調子だとまずい報告のようですわね」  白井はジェルで塗り固めた傷口の上に、さらに包帯を巻いていく。布地を当ててみると再確認できるのだが、白井の肌にはうっすらと汗がにじんでいる。 『いえ。「|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》」の|破壊《はかい》に関する報告なんて、何もヒットしません。今も衛星軌道上に漂っているという事になっていますし[#「なっていますし」に傍点]、先月打ち上げた学園都市のシャトルの船外活動スケジュールも、そちらとは無関係のものだったという事になっています[#「なっています」に傍点]』 「どういう事ですの?」  |白井《しらい》は|眉《まゆ》をひそめて、包帯を巻く手を止める。  裏路地でボコボコにやられた時に見せられた、一枚の写真を思い出す。  砕けた人工衛星の写真を。  |初春《ういはる》も、納得できないような声で、 『良い報告と言えば、良い報告なんでしょうか……? ウチの別チームがキャリーケースの盗疑被害者を捕獲しましたが、この運び屋[#「運び屋」に傍点]も、第二三学区からの|依頼《いらい》というだけで、衛星については知らなかったと言っています。|読心能力者《サイコメトラー》に|記憶《きおく》を読ませて確認しましたが、間違いないそうです』  運び屋。  プロだろうか、と白井は考える。キャリーケースを盗まれた後も犯人グループへ|追撃《ついげき》をかけている辺り、そこそこ仕事に執着心はありそうだが……。 「つまり、第二三学区はキャリーケースの中身を、学園都市の中にある別の研究機関に届けようとしていた。だから運び屋を使ってキャリーケースを輸送していた。それを何者か———おそらく|結標達《むすじめたち》のグループですわね———が横取りした。横取りされた方はキャリーケースを取り返したいが、秘密裏に行動していたため声を大にはできず、自分達だけで取り戻す必要があった———という所ですの?」  白井は包帯を巻いた腕や足をゆっくりと動かし、血が出ないかどうか確かめる。速乾性のジエルは早くも固まり、傷口を完全に|塞《ふさ》いでくれたようだ。 『元々第二三学区からどこの部署ヘキャリーケースが運ばれようとしていたのかというのも気になりますが、それより重要なのは、やはり強奪犯の背景でしょう。おそらく、事件の裏には学園都市に敵対する外部組織の関与の可能性があると思いますね。白井さんの目撃情報もありますし、何より同じ学園都市内部なら強奪なんて雑な方法に|頼《たよ》るとは思えません』 「……敵対する外部組織。そんなものと|繋《つな》がっているだなんて、結標は一体何者ですの?」 『結標は|霧《きりが》ヶ|丘《おか》女学院を|頻繁《ひんぱん》に欠席しています。それも全部「特例公欠」扱いです。|風紀委員《ジヤツジメント》の活動でもない限り、ありえないはずなんですが』 「わたくし達の活動に匹敵するだけの働きをしているとでも言いますの?」  初春の声が小さく低くなる。 『未確認情報ですが、一部では、彼女は「案内人」だと。窓もドアもないビルまでの』 「……学園都市統括理事長、の本拠地ですわね」  まるで映画のようなウワサだ。学園都市のトップは核ミサイルの|衝撃波《しようげきは》をも吸収拡散させる特殊なビルの中で生活していると。そのビルは窓もドアも、一切の出入り口が存在しないから、利用するには|空間移動《テレポート》を扱える『案内人』が必須となるらしい。  だが、そのウワサが本当なら(あるいは、それ以上のものだとしたら)結標が一般人にも知らない事情に精通し、特殊な人間との接点を持っていてもおかしくはない。そして、それが外部組織から重要視されているのかもしれない。 「|結標《むすじめ》本人の事情は分かりませんけど、とにかく彼女が外部組織と接触して事件を起こしたと写えてみますわ。キャリーケースの中身……彼女は『|残骸《レムナント》』と呼んでましたわね。それを入手したとなれば」 『あとは学園都市の外に控えている外部組織の元まで運んで、キャリーケースをバトンタッチ、といった所でしょうか』 「で、その経路は分かりますの?」  |白井《しらい》は替えの下着に手を伸ばそうとした所で、ふと手が血に|濡《ぬ》れているのに改めて気づいた。洗面所に向かい、手を洗う。冷静になると携帯電話を|頬《ほお》と肩で挟み全裸で手を洗っているツインテールの女というのはかなり間抜けですの、と思いながら。 『難しいですね。|空間移動《テレポート》が使えると道路の制約なんて関係ないですし。白井さんも分かってますよね。学園都市のセキュリティにだって死角はあるって』と、そこで|初春《ういはる》は一度言葉を区切って、『あ、でもセキュリティに引っかからない事が逆にヒントにもなりますよ』 「どういう事ですの」  タオルで手を|拭《ふ》き、ショーツに足を通しつつ白井は言った。両手で腰まで一気に引き上げ……すぎたので、食い込んだ部分を指で少し戻す。 『相手がセキュリティの死角を通っているなら、死角を全部調べれば良いんです。学園都市全域に比べれば、死角エリアの方が面積狭いでしょう?』 「……簡単に、言ってくれますわね。この|怪我人《けがにん》相手に、———っつ!」 小さめのブラジャーのホックを背中の所で留めようとした|瞬間《しゆんかん》、|脇腹《わきばら》に痛みが走った。|皮膚《ひふ》が引っ張られたらしい。フロントホックか、いっそスリップを選ぶべきだったか、と白井は 顔をしかめて脇腹に触れる。幸い、傷口が開くような事態にはなっていない。 「……、」  白井|黒子《くろこ》は、ほんのわずかに下着姿の自分の体を観察する。  |御坂美琴《みさかみこと》には|悪趣味《あくしゆみ》と言われて(実はかなり深刻に)ヘコんでいる白井だが、彼女は下着のデザインそのものにあまり気を配っていない。下着は見せる物ではなく、身に着ける物だと考えているからだ。それよりも、白井としては下着の|穿《は》き心地の方を優先したいのである。子供っぽいデザインの下着は往々にして生地が分厚くて安っぽい感触がするし、動くといちいち肌を|擦《こす》って気が散るのだ。そんなものを選ぶぐらいならスカートの下に何も穿かない方がマシだとさえ思っている白井だが(あるいは、白井の能力の使用には、精神集中が必要なせいもあるかもしれないが)、この辺りは美琴とは息が合わない。ガッカリな白井黒子である。  下着の装着が終わると、白井は金属矢のホルダーとして使っていた革ベルトを|太股《ふともも》に巻きつけた。スペアの矢はない。自分の体に刺さっていた矢を応急キットの中にあった消毒用のアル コールで|拭《ぬぐ》うと、それを革ベルトに差し込む。 『えっと、良いですか|白井《しらい》さん。現場の地点から、死角と死角の間を渡って学園都市の外へ出ようとした場合、地下と地上を含めたとしても自然と何本かのルートが浮かび上がるんです。ですからしらみ|潰《つぶ》しという訳では……』 「……、しっ!」  白井は人の気配を感じ、慌てて携帯電話の通話を切った。直後、|薄《うす》いドアの向こうで、部屋に|誰《だれ》かが入ってきた物音が聞こえる。  彼女はドアに目をやり、ユニットバスの出入口にカギを掛け忘れていた事に気づいて慌てて閉めた。ガチン、という金属音がやけに不自然に|響《ひび》き渡る。 「……? |黒子《くろこ》?」  その声を聞き間違えるはずがない、と白井は思う。薄い板を通してわずかにくぐもっていても、たった一言だけでも、分かる。|御坂美琴《みさかみこと》のものなら、吐息一つだけで当てる自信がある。 「なに、お|風呂《ふろ》入ってんの? アンタ帰ってきたなら部屋の|灯《あか》りぐらい|点《つ》けなさいよ。真っ|暗闇《くらやみ》ん中で何やってた訳?」  ドアの前から放たれた声に、白井はギクリとする。今のこのボロボロの姿を美琴に見せる訳にはいかない。この姿を連想させるような素振りすら与えてはならない。御坂美琴は、彼女が目分で思っているよりはるかに他人の悩みを背負い込みやすいタイプだ。 「しょ、省エネというヤツですのよ、お姉様。地球温暖化に少しでも歯止めをかけようという|黒子《くろこ》の心優しい|配慮《はいりよ》ですの」 「はぁ。でも学園都市って風力発電メインだから二酸化炭素とか関係なくない? サブも太陽光発電とか、資源を必要としないヤツばっかだし。エアコンとか使うとまた別問題だろうけど」 「あら、そうでしたっけ? てっきりわたくしはこれを口実にムーディな|薄暗闇《うすくらやみ》へお姉様を|誘《さそ》い込もうと思っていましたのに。———おやまぁお姉様。『うげっ!?』とはまた|淑女《しゆくじよ》らしからぬお言葉遣いですわよ」  |白井《しらい》はくすくすと笑いながら、ユニットバスのドアへと背を預ける。  薄い板を通して、振動があった。向こうも同じ仕草をしていると分かる。  白井黒子はその振動を|捉《とら》えながら、思い出す。 『都合が良いとは思わなかった? これを盗んだウチの使えない連中が、まるでタイミングを計ったように渋滞に巻き込まれた事とか。信号機の配電ミスって、何が原因だったか予想できなかった[#「何が原因だったか予想できなかった」に傍点]? まさか、あの|常盤台《ときわだい》中学のエースが、一体何を|司《つかさど》る超能力者なのかも知らないなんて事はないわよね』  ———何かが起きつつあるのは、分かっている。 『|御坂美琴《みさかみこと》も大変でしょうね。何者かが「|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》」を|破壊《はかい》してくれたから悪夢は終わ っていたのに』  ———そしてそこに、御坂美琴が深く|関《かか》わっている事も。 『それを再び修復されそうだって言うんだから。そんな事になれば「実験」が繰り返されてしまうわね。だから、まあ、必死にあがく気持ちは分からないでもないけど』  ———当の美琴は何らかの問題に巻き込まれているにも|拘《かか》わらず、白井に対して困ったり悩んだりといった素振りを一切見せない、いや見せたくないのだという事も。  分かっている。個々の出来事を追っていけば自然と分かっていく。美琴にだって悩みはあって、でもそれは白井には打ち明けられなくて、代わりに|誰《だれ》かが悩みに答えている。そして美琴は、理由はどうあれ白井にそうある事を願っている。閉じた輪の中から外へと|弾《はじ》くように。  どれだけ白井が頑張っても、血を吐くほどに努力しても。  御坂美琴は、喜ばない。自分の事情に巻き込んでしまった白井の姿を見ても、絶対に。  それでも。  白井は、彼女のために何かがしたいと強く思う。彼女が抱えているものを、少しでも軽くするために。白井黒子という個人が体を張って実現した事など明かされなくても良い、全然別の人間に手柄が渡ってしまっても構わない。彼女は願う。傷だらけの体で、血みどろになった自分の衣服を眺め、歯を食いしばって何かに祈る。  白井黒子には詳しい事情なんて|掴《つか》めていない。  何一つ聞かされていないのだから判断などできるはずがない。  だが、もう終わりにすると。  何かを巡って|誰《だれ》かが血を流すような、そんな場所から少女を必ず連れ戻すと。  そして|全《すべ》てを終わらせた後で、もう一度今日の放課後のように気兼ねなく笑い合うと。  |白井黒子《しらいくろこ》は一人、ただ無言で心に決める。  そのためならば。 (たとえ|貴女《あなた》に望まれずとも、わたくしは本気で|嘘《うそ》をついて差し上げますわ。お姉様) 「お姉様はこれまでどちらに?」 「んー? 買いそびれたアクセサリーを集めにってトコかしら[#「買いそびれたアクセサリーを集めにってトコかしら」に傍点]。ここ最近あちこち探し回ってんだけど、まだビシッと決まったのが見つからないのよね。今は忘れ物を取りに来たってトコ。これからまたちょっと出かけてくるわ。おっと、お|土産《みやげ》とかは期待しないようにね、黒子」  詰めの甘い言葉だ、と白井は思う。自分がいつもの調子で|一緒《いつしよ》についていく、と言ったらどうするつもりなのだろう。 (ここ最近[#「ここ最近」に傍点]……という事は、お姉様はずっと一人で、何かをしていたんですのね。アクセサリーを探しに、ですって。|精密機器の補助部品《アクセサリー》……。まったく、言ってくれますわね)  白井は|薄《うす》く笑いながら、しかし引き止めない。放つべき言葉は一つ。夕暮れに、|美琴《みこと》が告げてくれた|台詞《せりふ》。その心中を改めて思い返し、白井は告げる。 「雨、降らないと良いですわね。近頃は天気予報も当てになりませんから[#「近頃は天気予報も当てになりませんから」に傍点]」 「……、」  美琴は|一瞬《いつしゆん》だけ、|驚《おどろ》いたように息を|呑《の》んだようだ。それから少し|沈黙《ちんもく》があって、美琴の声が先ほどよりも少しだけ柔らかくなる。肩の力を抜いたように。 「そうね、心配してくれてありがとう[#「心配してくれてありがとう」に傍点]。なるべく早くに帰るように努力はするわ」  告げて、ドア越しの感覚が消えた。薄い板の向こうの少女はドアから背を離すと、部屋から外へと出て行ったようだ。  バタン、と部屋の出入り口のドアが開閉する音が聞こえる。 「さて」  白井は一息つくと、下着姿のまま替えの夏服を乱暴に|掴《つか》み、それから携帯電話を掛け直した。|初春《ういはる》には聞かなければならない事がある。 「ええ、はい。そうですの。そのクズ野郎の予想ルートをさっさと教えてくださいません?」      2  血まみれのバスルームを|磨《みが》いて裂けた衣類を処分し、白井は再び|空間移動《テレポート》で女子|寮《りよう》から裏の通りに脱出する。  時刻は午後八時三〇分。  |美琴《みこと》と買い物してからまだ二時間しか|経《た》っていない事に、|白井《しらい》は内心で少し|驚《おどろ》いていた。  この時間帯になると、学園都市の交通機関はほとんど眠りに就いている。夜遊び防止も兼ねて、バスも電車も学校の最終下校時刻に合わせて運行表が組まれているためだ。通りを走っているのは教員か大学生の車、もしくはタクシーやトラックなど業者のものだろう。  渋滞はすでに解消されているようだ。  というより、元々車両の絶対数が少ないためスカスカになっているようにも見える。  白井は空気を吸い込む。味も|匂《にお》いもすでに夜のものへと変わっていた。 『えっとですね。有力情報ですよ、白井さん』携帯電話が何か言った。『どうも例の|結標淡希《むすじめあわき》には、白井さんのように自分の体を連続移動させる|術《すベ》はなさそうなんです。|書庫《バンク》の方にその手の記録がありました。白井さん、結標が二年前に|時間割り《カリキユラム》で暴走事故を起こしたって前に言いましたよね』 「それが、どうしたんですの?」 『その後に、結標は校内カウンセラーを|頻繁《ひんぱん》に利用しているんです。一種のトラウマになったのではないでしょうか。「自分の体を移動させる」実験では良い結果を出せず、無理をして体調を崩した経験も少なくないようです。肉体の移動一回につき決死の覚悟って感じですよ。つまり』 「連続移動などすれば、あっという間に精神の方が消耗してしまう、といった所ですのね」  白井はわずかに唇を|噛《か》み、 「まあ、確かにあの|戦闘中《せんとうちゆう》に、結標が自分の体を移動させた所は見ていませんけど。大体、それができるなら外部からエージェントを呼ぶより、最初から自分でキャリーケースを盗んで逃げた方が早いですわよね。壁も道路も無視して高速移動できるわたくし|達《たち》は、普通の追跡方法では捕まえられませんもの」  白井の力にしても、その日の精神状態で大きく強さが揺らぐ。戦闘中にトラウマを掘り起こせば、結標の戦力だって激減する恐れがあるのかもしれない。  それにしても、と白井は思う。 (あれだけの能力者が、わたくしと同じレベル止まりというのは、まさかそのトラウマのせいで……?)  白井は苦い感想と共に|空間移動《テレポート》を開始。八〇メートル進み、地面に足をつけるたびに、即座に次の目的地を定めて連続的に移動する。  正直、白井の体はボロボロで、自分の足で歩くのも難しいレベルだ。こういう時は、自由自在に自分の体を連続高速移動できるこの能力が|頼《たの》もしく思える。 「結標の場合、わたくしと違って『遠く離れたもの』も転移できる反面、それだけ計算式が面倒ですのね。わたくしなら『手元にあるもの』しか転移できませんけど、代わりに『移動前の座標』を計算する必要はありませんから」 『です……ね。———その分、計算式を短縮でき……ます。それで———|結標《むすじめ》が|座標移動《ムーブポイント》、しない場合の……予想ルート、ですけど……』  |空間移動《テレポート》の弊害か、ブツブツと途切れがちになる音声に|白井《しらい》は意識を傾けていたが、|初春《ういはる》が告げるより早く、彼女は行動の指針を得た。  ゴガン!! と。  どこか遠くで、雷が落ちるような|轟音《ごうおん》が|響《ひび》き渡ったからだ。  白井|黒子《くろこ》は夜空を見る。 「まさか……」  交通や店舗の営業時間など、基本的な時間設定が学校に合わせてある学園都市は、日が落ちると早々に表通りから|灯《あか》りが消えるため、都心に比べると人工の光は少ない。満天の星々は今夜が晴天である事を伝え、つまり落雷が起きるような雲など存在しないと告げている。  ならば、高圧電流の絶叫の元は一体どこにあるか。 『白井さん。第七学区の一地区で能力者による大規模な|戦闘《せんとう》の情報が入りました。結標の予想逃走ルート上です!』  初春の声の音量を、そして電波の受信を遮るように、もう一度、雷鳴の絶叫が|吼《ほ》える。  その音色を聞き間違えるはずがないと、白井黒子は断言できる。 「お姉様!!」  白井は叫び、進路を変更。|美琴《みこと》の前に不用意に姿をさらすのは|流儀《りゆうぎ》に反すると思いながらも、彼女が何者かに|襲《おそ》われている場面を想像すると、|踏《ふ》み|止《とど》まるという選択はできなくなる。  |空間移動《テレポート》を使い、次々と空間を転移していく。  その間にも凶暴とも言える火花の|炸裂音《さくれつおん》が|爆撃《ばぐげき》のように響き渡る。  夜の道を歩く、白井よりも年上の男女|達《たち》が|怪詩《けげん》と不審の目を向けている。  白井はそれら|全《すべ》てに|急《せ》かされるように先へ先へと突き進み、目標地点が近い事を知る。連続転移を使った高速移動を解除。|莫大《ばくだい》な雷撃の音源から、ちょうど死角になるように、ビルの角へと移動する。  白井はまるで尾行する探偵のように、ビルの角から顔だけ出して向こうを|窺《うかが》う。  そこで、彼女は見た。      3  戦場だ。  そこは、たった一人の少女が作り出す戦場だった。  場所は建設途中のビルである。確か八月三一日にも鉄骨が崩れた事故が起きている場所だ。|壊《こわ》れて障害物となった鉄骨を取り除き、残った部分の強度を検査して、ようやく再び組み上げ始めた所……だったように|記憶《きおく》している。  そのビルの入口の前に、マイクロバスが横倒しになっていた。  ガラスは割れ、内装は舞い飛び、しかしその中には|誰《だれ》の姿もない。  乗っていたであろう人々は皆、建設途中のビルの中へと飛び込んでいる。そこかしこに突き立つ鉄骨が、少しでも何らかの盾になる事を願って。  大小合わせて三〇人近い男女がビルの中には|潜《ひそ》んでいた。銃で武装している者もいれば学園都市の能力者もいた。 (あの銃! 見覚えがありますの。わたくしがキャリーを使ってどつき回した連中が持っていたものと同じ……ッ!!)  |白井《しらい》はビルの陰から眺めて息を|呑《の》む。銃のデザインはもちろん、構え方も似ている。対して、|御坂美琴《みさかみこと》は転がったマイクロバスの横に、ただ突っ立っていた。 (あの見覚えのある銃を持った連中と、あのバカ女からキャリーに深く|関《かか》わっていると言われたお姉様。という事は……)  構図を見れば、これが『|残骸《レムナント》』を外部組織へ渡そうとしている連中なのだと推測できる。学園都市の能力者が何を目的に寝返ったかは知らない。  そこには見知った顔もあった。  |結標淡希《むすじめあわき》だ。  美琴の前に遮蔽物は何もない。倒れたマイクロバスはあるのに、それを盾にしようともしない。常識的に考えれば、飛び道具を持つ数十名もの敵を前に、あまりにも無防備とも取れる姿だが、  |超電磁砲《レールガン》の異名は。その常識を軽々と打ち破る。  |御坂美琴《みさかみこと》の指先から|閃光《せんこう》が噴いた。  音速の三倍で|撃《う》ち出された小さなコインは、ビルの柱となる分厚い鉄骨を|易《やすやす》々と引き|千切《ちぎ》る。銃を構えた男|達《たち》が|弾《はじ》け飛んだわずかな破片の|煽《あお》りを食らって|薙《な》ぎ倒され、上階で美琴の頭を|狙《ねら》っていた能力者は足場の柱を失って真下へ|呑《の》み込まれて.いく。二〇本近い鉄骨をまとめて突き破った|超電磁砲《レールガン》の|一撃《いちげき》は、別のビルの壁に|亀裂《きれつ》を走らせようやく動きを止める。  泡を食った男達の内の何人かが奥へと下がろうとするが、美琴の雷撃はそれを許さない。前髪から放たれた青白い爆光は鉄骨の一部に直撃すると、即座に建物全体へ走り回った。鉄骨に触れている者は|瞬間的《しゆんかんてき》に跳ね飛ばされ、また、触れていない者達も、鋼鉄の|艦《おり》から内側、へ向かい、四方八方から|襲《おそ》いかかる電撃に貫かれて地面に転がされる。  運良く何らかの要因が重なって雷撃の|嵐《あらし》を|避《さ》けられた残り物の能力者達が、巻き返しを図ろうとする。だが遅い。そして力の差がありすぎる。|風力使《エアロシユ タ 》いの真空刃は|超電磁砲《レールガン》がかき乱す空気の余波だけで吹き消され、|念力使《テレキネシス》いが射出しようとした無数の木の|杭《くい》は高圧電流を浴びて|爆 発《ばくはつ》し、同系統の|電撃使い《エレクトロマスター》に至っては力を使う前に恐怖で気を失っていた。  それは圧倒的で、  |超能力者《レベル5》が、|超能力者《レペル5》と呼ばれる理由を明かすための|絶望の戦い《デモンストレーシヨン》でしかなく、  学園都市でも七人しかいない実力者が誇る実力差だった。  |白井《しらい》には、これだけの状況で死者が出ていないのが逆に冗談のようにすら思えた。自分の攻撃と人の動き、|破壊《はかい》された物体がどう動くのかまで|考慮《こうりよ》しなければ、この手加減は作れない。そんな片手間のような攻撃で、しかしすでに数十人もの混成部隊は壊滅していた。  白井は、ユニットバスで|怪我《けが》の手当てを終わらせて、部屋に戻った時に、サイドテーブルに置いてあった貯金箱の|蓋《ふた》が開いていたのを思い出す。小さな宝箱を模した貯金箱の中には、|超電磁砲《レールガン》の弾丸に使うゲームセンターのコインが詰まっていたはずだ。 「出てきなさい、|卑怯者《ひきようもの》。仲間の体をクッションに利用するなんて感心できないわね」  美琴は最初から最後まで、一歩も動いていない。ただ正面を見据え、|戦《いくさ》を終えた戦場に向かって|侮蔑《ぶべつ》の声を放つ。 「仲間の死は|無駄《むだ》にはしない、という美談はいかがかしら?」  放たれた声に対し、答える返事にはまだ余裕が残されている。  大きな白いキャリーケースを片手で引きずり、口元に笑みすら浮かべて、|結標淡希《むすじめあわき》は鉄骨を組んだ足場の三階部分に現れた。彼女の周囲には、高圧電流を浴びて気絶した男達が転がっている。おそらく攻撃の瞬間に自分の手元へ転移し、文字通りの『盾』にしたのだろう。右手の車用ライトがゆらゆらと揺れている。 「悪党は言う事も小さいわね。まさか四〇秒逃げ切った程度で、この|超電磁砲《レールガン》を攻略したとか付け上がってんの?」 「いいえ。|貴女《あなた》が本気を出していたら、今の一撃でこの一帯は壊滅しているでしょう。まあ、だから何なのかって感じだけど」  |結標《むすじめ》はキャリーケースを鉄骨の上で固定すると、そこに腰を掛けて、 「それにしても、今回は随分と|焦《あせ》っているのね。以前は情報戦が主流で、どれだけ力を持っていても超電磁砲という直接的な暴力を使った『実験』の妨害には入らなかったのに。そんなに 『|残骸《レムナント》』を組み直されるのが怖いのかしら。それとも、復元された『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』を世界中に量産流通化される事が? あるいはその内の何基かで『実験』再開されるのが?」 「……、言葉の汚い女は口を|噤《つぐ》んでなさい」  バシッ、と|美琴《みこと》の前髪で火花が散る。  結標はケースの上に座ったまま、招くように軍用ライトを下から上へと|緩《ゆる》やかに振る。 (……)  |白井《しらい》はビルの角から様子を|窺《うかが》い、そこで美琴と|対峙《たいじ》しているのは結標だと、改めて確認する。どういう|因縁《いんねん》があるのかは|未《いま》だに理解できないが、やはり彼女|達《たち》は|戦闘《せんとう》状態にある。  結標の口から出ていた言葉を、白井は思い出す。 『知らなかったの。知らないまま利用されてるという線は……なさそうね。|常盤台《ときわだい》中学の超電磁砲はそんな人格していないでしょうし』 (赤の他人、という訳ではなさそうですわよね……)  彼女達の会話には、お互いに初対面という|匂《にお》いを感じさせなかった。おそらく二人は前からぶつかり合っていて、白井はその断片を|覗《のぞ》いているようなものなのだろう。 (お姉様と、ぶつかって、まだやられていない、ですって?)  もちろん戦いとは真正面から激突するだけではない。むしろ結標の性格を考えれば(もちうん、それほど深く知っている訳ではないが)、できるだけ死角に|潜《もぐ》り込んでの|奇襲《きしゆう》を選ぶような気がする。  それでも、あの|超電磁砲《レールガン》を相手にして、まともに立っていられるだけでも異常だろう。  どうすればこの場で最善の策を尽くせるか、と白井は考える。|闇雲《やみくも》に向かっても白井と結標では能力差があるし、何より白井が不用意に動く事で戦況を下手に揺るがし、結果として美琴に傷を負わせるような事態だけは絶対に|避《さ》けたい。 「うふふ。弱い者など放っておけば良いのに。そもそも、|貴女《あなた》が大事にしているあれら[#「あれら」に傍点]は『実験』のために作られたんでしょう。だったら本来通りに|壊《こわ》してあげれば良いのよ」 「アンタ、本気で言ってんの?」 「本気も何も。結局、貴女は自分のために戦っているんでしょう、私と同じく。自分のために、自分の力を、自分の好きなように振るって他者を傷つける。別に悪い事じゃないわ、自分の手の中にあるモノに対して自分が我慢する方がおかしいのだから。そうでしょう?」  仲間の体を盾に使って平然と笑う女は、|嘲《あざけ》るように言った。  結局は、私欲のために力を振るっているのだと。  両者は同類なのだから、そちらが一方的に|憤《いきどお》るのはおかしいと。 「そうね」  対して、|御坂美琴《みさかみこと》は小さく笑った。  前髪に限らず、全身から断続的に青白い火花を散らしつつ、 「私はムカついてる。私は今、頭の血管がブチ切れそうなぐらいムカついてるわ。ええ、『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』の|残骸《ざんがい》を掘り返そうとしたり、私欲のためにそれを強奪する|馬鹿《ばか》が現れたり、やっとこさっとこみんなで治めた『実験』を再び蒸し返そうとされたり。確かにそれはムカつく。この件に|関《かか》わってる機関の中枢を情報戦でまとめてぶち|壊《こわ》したいぐらいには」  その眼光は、|真《ま》っ|直《す》ぐに|結標淡希《むすじめあわき》を|睨《にら》みつけ、 「けどね、私はそれ以上に頭にきてんのよ」  美琴の役に立つような、最悪、彼女の足だけは引っ張らないように策を練っていた|白井《しらい》は、ふと美琴の言葉に思考を止めて、 「……あの馬鹿、この私が気づかないとでも思ったのかしら。入室届も出さずに、部屋はメチャクチャで、応急キットがなくなってて。ドア越しの声聞いただけで痛みが伝わってくるような、あんなひどい状況で……」  その声に、白井は呼吸が止まるかと思った。  彼女が何に怒りを感じているのかを、知った。 「一番ムカついてるのはここよ。この件に私の後輩を巻き込んだ事[#「この件に私の後輩を巻き込んだ事」に傍点]。その馬鹿が医者にも行か ずにテメェで下手な手当てをやった事、そこまでボロボロにされてまだ|諦《あきら》めがついてない事! あまつさえテメェの身を差し置いて! 私を心配するような|台詞《せりふ》を吐きやがった事!! まったくあんな馬鹿な後輩持った事に腹が立つわ!!」  白井の、胸が、詰まる。  美琴の台詞は結標には意味が通じないものだろう。そして|常盤台《ときわだい》中学の|超電磁砲《レールガン》は白井がここにいる事には気づいていない。だとすれば、その叫びは|誰《だれ》に向かっているものか。  白井には|内緒《ないしよ》で。  アクセサリーを探しているなんてバレバレの言い訳まで用意して。  天気が崩れるかもしれないなんて|濁《にご》した言葉で、けれど何度も警告を与えてくれて。  たった一人で。  御坂美琴は、今の今まで、そして今この場において、何のために動いているのか。 「ああ私はムカついてるわよ私利私欲で! |完壁《かんぺき》すぎて馬鹿馬鹿しい後輩と、それを傷つけやがった目の前のクズ女と、何よりこの最悪な状況を作り上げた自分自身に!!」  まるで己の胸に刃を突き刺すように、美琴は叫んだ。 『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』が関わった事件、それによっていがみ合う両者を共に止めるように。 「この一件が『実験』を発端にしたものだって言うのなら、その責任は私にあるわ。馬鹿な後輩が傷ついたのも、そしてアンタが私の馬鹿な後輩を傷つけてしまったのも[#「そしてアンタが私の馬鹿な後輩を傷つけてしまったのも」に傍点]! それが全部、私のせいだっていうのなら、私は私の義務と権利を|全《すべ》て使ってアンタを止める!!」  |白井《しらい》は知る。  自分と|結標《むすじめ》が戦っていた裏で、|美琴《みこと》が|何故《なぜ》一人で戦おうとしたのかを。  彼女は白井の味方でも結標の敵でもない。  |御坂《みさか》美琴はその場の全員を止めるために、その場の|誰《だれ》とも|一緒《いつしよ》にならない道を選んだ。  ただ一人で。  自分の中にある、何らかの悪夢にすら刃を向けて。 「もう終わりにしてやるわ。アンタ|達《たち》が私の『|実験《ぜつぼう》』に引きずられなくちゃならない理由なんかどこにもないんだから」  キャリーケースの上で足を組む結標は、くすくすと笑って、 「甘ったるいほどに優しいわね。別に|貴女《あなた》が『|演算中枢《シリコランダム》』を作った訳ではないのに。大人しく自分も被害者だとでも嘆いていればわざわざ戦わなくても済んだくせに」 「だけど、アンタが戦うきっかけになったのが、私達の『実験』のせいだって言うのなら。|絶対能力進化実験《レベル6シフト》にしても、それ以前の|量産能力者実験《レデイオノイズ》にしても」 (??? レベル6シフト? レディオノイズ?)  暗号のような言葉だけを聞いた白井には、それが何を指しているのか分からない。  だが、結標の方には伝わったらしく、 「貴女の、ではなく、|妹達《シスターズ》と最強の能力者の『実験』、でしょう? ……やっぱり倒された『仲間』から話は聞いていたのね。私の『理由』を。ならば分かるでしょう、貴女が一人の能力者なら。———私はここで捕まる訳にはいかない。誰を|犠牲《ぎせい》にしてでも、どんな手を使ってでも逃げ延びさせていただくわ」  最後の言葉だけが、ふざけた口調ではなくなった。  白井はビルの角で身構える。結標の『最大移動距離』はどの程度のものだろうか。  美琴の目がわずかに細くなり、 「……アンタのちっぽけな|大能力《レベル4》で、私の|雷撃《らいげき》から逃げ切れると思う?」 「あら。確かに光の速度の雷撃は目で見てからでは|避《さ》けられないでしょうけど、それだけよ[#「それだけよ」に傍点]。前触れを読み、それに合わせて転移すれば———」 「無理よ」  美琴は簡単に遮った。 「アンタとぶつかるのは初めてじゃないでしょうが[#「アンタとぶつかるのは初めてじゃないでしょうが」に傍点]。自分でも気づいているでしょ。アンタの能力にはクセ[#「クセ」に傍点]がある。何でもかんでも移動できる割に、アンタは自分の体を移動させない。そ りゃそうよね。ビルの壁の中や車道の真ん中みたいに、危険な場所へ間違って自分の体を転移させたら終わりだもの。他人を犠牲にしてでも救われたいアンタとしては、万に一つでも自分が自滅する可能性は排除したいって所かしら」 「……」 「何を|黙《だま》っているの? もしかして、私が今まで気づいていないとでも思ってた訳? アンタね、仲間の体や辺りの看板なんかを|座標移動《ムーブポイント》を使って散々|目晦《めくら》ましに利用しておきながら、自分だけ走って逃げてりゃ違和感ぐらい覚えて当然でしょうが」  |美琴《みこと》はくだらなそうに息を吐いて、 「大体、これだけ不利な状況になれば、普通なら逃げに入るでしょ。それともアンタはまだ出し惜しみしてるとでも? そんな余裕がない事ぐらい|誰《だれ》でも分かるわよ」  |結標淡希《むすじめあわき》は|薄《うす》く笑っている。  だが、視力の良い者なら分かったかもしれない。彼女の両手の指先が、ほんのわずかに、しかし不自然に|震《ふる》えている事に。 「|書庫《バンク》に残っていた暴走事故の件も|絡《から》んでるんでしょうけど。アンタは他人や物体を飛ばすのはためらわない。でも自分の体を飛ばす時だけは話が違うんじゃない? 例えば、計算式に間違いがないか確かめるために、二、三秒のラグが出てくるとか、ね」  そして、と美琴は告げる。 「三秒あれば、一体何発|撃《う》てると思う?」 「……、|書庫《バンク》に、そこまでの情報が記録されていたかしら」 「同じ答えを言わせるな。|書庫《バンク》に全部書かれてなくたって、アンタのツラと戦い方を見てりゃ予測はつくわよ」  答えに、結標淡希は笑みを深く刻んだ。  揺れていた足が鉄骨の足場につく。腰を掛けていたキャリーケースから体を離し、優雅に立ち上がる。|緩《ゆる》やかに動いていた軍用ライトの先端が、ピタリと止まる。 「ですけど」  ———自分の体以外なら[#「自分の体以外なら」に傍点]、座標移動させる事などためらわない[#「座標移動させる事などためらわない」に傍点]。  一言と共に、結標の眼前に一〇人近い人間がかき集められた。皆、美琴の|攻撃《こをげき》を受けて気絶した者|達《たち》だ。学園都市の外部の人間も内部の能力者も、大人も子供も混じっている。  それは入間を使った盾だ。  だが、 「随分と———スッカスカの盾ね!!」  美琴は構わず前髪から火花を散らす。人間の体とは鉄板のように平たい形はしていない。寄せ集めた所で必ず穴が生まれる。そのわずかな|隙聞《すきま》を貫こうとしているのだ。  一〇億ボルトもの高圧電流の|槍《やり》。 それが美琴の前髪から放たれる寸前で、盾の向こうにいる結標が笑った。 「さて問題」  声は場違いなほどに明るく、 「この中に、私達とは関係ない一般人は何人混じっているでしょう[#「私達とは関係ない一般人は何人混じっているでしょう」に傍点]?」  なっ!? と|美琴《みこと》は思わず自分の動きにブレーキをかけてしまう。  そのためらいが、ほんの三秒のラグを埋めてしまう。  直後、|結標淡希《むすめじあわき》の姿が|虚空《こくう》へ消えた。キャリーケースと共に。  バタバタと空中から鉄骨の上へ落ちていく人間は皆、気絶している。美琴に倒された者|達《たち》ばかりだ。結標は一般人など盾にしていなかった。 「チィッ!!」  美琴は舌打ちして周囲を見回した。当然ながら、目に見えるような場所には移動していないだろう。|空間移動《テレポート》系の能力の厄介な所は、点と点の移動であるため、線で結んだ追跡を行えないという所だ。  |白井《しらい》は|一瞬《いつしゆん》、美琴の顔を見た。  向こうから見えているとは思えない。見えているとしたら、あんな今にも泣き出しそうな顔は絶対にさらさないはずだ。  白井|黒子《くろこ》はビルの壁に背を預けて身を隠し、虚空を|睨《にら》んで考える。 (さて。ここからは、わたくしの出番ですわよ。お姉様)  同じ|空間移動《テレポート》能力者の自分だとしたら、|御坂《みさか》美琴の|追撃《ついげき》を逃れるためにどこへ飛び込むか。  そして。  あの[#「あの」に傍点]|超電磁砲《もヘレールガン》から逃げ延びたと思った瞬間、どれほどの|安《あんど》堵と|隙《すき》が生まれるかを。 (ごめんくださいね、お姉様。|貴女《あなた》の|馬鹿《ばか》な後輩は、貴女の言葉を聞き、貴女がどれほどわたくしを心配してくれているのか分かっていても、なお戦い抜くという考えがまったく揺らぎませんの)  その足跡を追いかけるには、やはり同じ能力者の力が必要だ。  道路の流れも壁の厚さも無視して自在に移動できる力を持つ者が。 「さあ、行きますわよ白井黒子。必ず帰るために、戦場の一番奥深くへと」  |風紀委員《ジヤツジメント》の腕章を制服の肩に留める。  直後。己の役目を再確認した彼女の姿が、虚空へ消えた。 [#改ページ]    行間 三  ———急がなければ。  照明を落として真っ暗になった病室で、ある少女はベッドから起き上がった。  ———急がなければならない、とミサカは己の中の優先順位を跳ね上げます。  |御坂美琴《みさかみこと》に似ているが、どこか違う。彼女は美琴の遺伝子を使って作られた、|検体番号《シリアルナンパー》一〇〇三二号、御坂妹だ。  彼女は平たく言えば電気を操る能力者であり、そして同時に同じ波長の脳波を持つ者なら電気的な通信を行える能力者|達《たち》だ。とある事件の後は、体の|治療《ちりよう》のためにこの病院に厄介になっている。|他《ほか》の|妹達《シスターズ》の多くは学園都市の外の施設を利用していた。御坂妹のように、学園都市の内部に|留《とど》まっている個体は少数派だ。  今、御坂妹の体を内側から激しく|急《せ》かしているのは、世界各地の施設に送られた同型の|妹達《シスターズ》からの情報と、それらを|全《すベ》て統合・管理している|検体番号《シワアルナンバー》二〇〇〇一号『|最終信号《ラストオ−ダー》』の出した結論によるものだ。  これまでも各地で断片的な情報が寄せられていたのだが、それらの集積・結合が済んだ事で巨大な事態が浮かび上がったのだ。 (それでは再確認を行います、とミサカ一〇〇三二号はネットワークを介し皆の|記憶《きおく》情報の最適化を実行します)  御坂妹は周囲をぐるりと見回し、ベッドの近くの棚の上に置いてあった特殊ゴーグルを右手で|掴《つか》み取る。 (現状、世界八ヶ国と一九の組織が、宇宙開発の名目でシャトルの打ち上げを実行、または計画しているのは、衛星軌道上に存在するものと推測される『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』の|残骸《ざんがい》を入手するためであるという事で間違いありませんか? とミサカ一〇〇三二号は不特定多数の個体へ質問を発します)  もしそれが本当なら、『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』が再び組み直されようとしている。  そのために必要な『|残骸《レムナント》』を巡ってトラブルが発生している。  世界最高の超高度並列演算装置の修復は、『実験』の再開を意味している。 とある少年と少女が、必死になって止めてくれた『実験』の。 (セビリアで同様の動きあり、とミサカ一〇八五四号は肯定します) (シュレスウィヒでも打ち上げの予定を確認、とミサカ一六七七〇号も報告します) (ノボシビルスクでは破片の一部を回収済みとの情報を入手しました、とミサカ一九九九九号だって答えます) (同ノボシビルスクでは、復元に必要な『核』たる|演算中枢《シリコランダム》は学園都市にあり、その他の『破片』程度を回収した所で『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』は完成しないとの調査結果が報告されています、とミサカニ〇〇〇〇号は補足の説明を行います)  ベッドから床へ足を下ろした|御坂《みさか》妹の頭の中に、直接、様々な声や感情や映像が|雪崩《なだ》れ込んでくる。世界各地の学園都市協力派の機関・組織に預けられ、|治療《ちりよう》を受けている同型の|妹達《シスターズ》の声だ。彼女|達《たち》は互いの脳波を使ってネットワークを構築する事で、世界九九六九ヶ所の情報を|一瞬《いつしゆん》で入手できる。 (現状、『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』の復元が可能な『|残骸《レムナント》』は学園都市にあるものだけだとミサカ一〇〇四四号は推測します) (他機関に渡った『|欠片《かけら》』、あるいは現在衛星軌道上に残された『断片』が学園都市から捨て置かれているのは、単にそこからでは何の復元もできないからでしょう、とミサカ一四〇〇二号も推測します) (ケープケネディでは同様の情報から学園都市内部へ侵入し『|残骸《レムナント》』の奪取を行う計画が進 行中です、とミサカ一八八二〇号は報告します) (その組織名は『|科学結社《Asociacion de cienia》ここではミサカニ〇〇〇一号の』っていうらしいの、ってミサカはミサカは追記してみる。あれ? ここではミサカニ〇〇〇一号の方がいいの? ってミサカはミサカは首を|傾《かし》げてみたり)  立て続けに返信される無数の意見に、御坂妹は奥歯を|噛《か》む。  どれも良くない情報ばかりだ。  すでに得た答えを何度も確認するその作業は、冗談であって欲しいという意図が含まれている事に、彼女自身は気づいていないようだった。 「すでに外出禁止時間ですが、こうしている場合ではありません、とミサカは|緊急《きんきゆう》用の言い訳を自分自身に駆使します」  御坂妹は寝間着に手をかける。パジャマやネグリジェではなく、簡素な手術衣だ。前を留めている|紐《ひも》を外すと、下着も何もない白い肌が|露出《ろしゆつ》される。御坂妹は、まるで恋人の目の前で着ていたバスローブを床へ落とすように、ストンと手術衣を脱ぎ捨てると、タオルを使って簡単 に全身の汗を|拭《ぬぐ》う。タオル越しに伝わる自分の体温が、平常よりもわずかに高い。体調不良で微熱を伴っているのだ。肌の色も、全体的にほんのりと赤みが差している。  彼女はややふらつく足でショーツに足を通し、腕を後ろへ回してブラジャーのホックを留め、白い|半袖《はんそで》のブラウスのボタンを留め、スカートの横のファスナーを上げ、サマーセーターに頭と両手を突っ込んで、ベッドに腰掛けて靴下を片方ずつ|穿《は》いていく。  それからゴーグルを掛けて、靴を履く。最後に床に落とした手術衣を拾って畳み、ベッドの上へ置いた。最低限の準備運動だけを最速の時聞で終わらせる。一度出口のドアの方を見たが、彼女は首を振って窓の方へ寄った。カギを開けてスライドさせる。  下を見る。ここは二階だ。  だが、そんな事など構わず|御坂《みさか》妹は考える。 (とにかく、学園都市内に存在する『|残骸《レムナント》』の対処が最優先でしょう、とミサカ一〇〇三ニ号は結論を出します。そう、『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』の復元だけは|避《さ》けなければ、とミサカはあの少年と少女の顔を思い出しながら決意を新たにします。彼らの顔を、|曇《くも》らせたくはありません)  御坂妹は決意するものの、無表情な|瞳《ひとみ》にどこか苦い色が宿る。  ボロボロになった御坂妹を助けるために夜の操車場へやってきた少年。  学園都市でも最強の超能力者など無視して御坂妹に放たれた叫び。  御坂妹は、覚えている。その内容を、覚えている。 「……、」  御坂妹は微熱で、ぼうっとした頭を振って、現実的な思考に戻る。  こうしている今も、自分|達《たち》を巡る状況は進行している。彼女達は事件の中心点にはいないが、外殻を埋めていくように世界各地から情報を集めていく事で、ぼんやりとした全体の輪郭を|捉《とら》える事に成功している。  そこまで分かっているのに。  御坂妹、及び|妹達《シスターズ》はその先の一歩を|踏《ふ》み込めない。  現在、学園都市に残っている|妹達《シスターズ》は、御坂妹を含めても一〇人以下だ。  そしてそのほとんどは、過剰な遺伝子操作と成長促進制御の副作用の|治療《ちりよう》中であり、つまりこんな|緊急《きんきゆう》事態に対処できるような———まして実戦に使えるような状態ではない。  御坂妹は、知っている。  自分の命が|脅《おびや》かされたその時に、立ち上がってくれる者の名を、知っている。  だからこそ、彼女達は自分の命運を、再び一人の少年に託そうとしているのだ。  夜の操車場にたった一人でやってきた、あの少年に。学園都市最強の|超能力者《レベル5》に|拳《こぶし》一つで立ち向かった、あの少年に。何度倒されても、どれだけの|攻撃《こうげき》を受けても、歯を食いしばって起き上がった、あの少年に。  こうした時に真っ先に浮かぶのは、やはり彼の顔だ。  たとえ何が起きても、決して|諦《あきら》めなかった彼の表情だ。  もちろん、巻き込みたくはない。  しかし、|頼《たよ》れる人間はもう|他《ほか》にいない。  非力だった。  自分の問題を自分で解決できない己の|不甲斐《ふがい》なさに、御坂妹はわずかに唇を|噛《か》む。自分で解決できないような大きな問題に、他人を巻き込んでしまうという事実も合わせて。  それでいて、彼女は、あるいは彼女達は、気づいていない。  今ここで感じている苦いもの[#「苦いもの」に傍点]は、けれどついこの間までは感じる必要もなかった心の動きだという事を。そして、その苦いもの[#「苦いもの」に傍点]は、裏を返せば|誰《だれ》かのためを|想《おも》う温かいもの[#「温かいもの」に傍点]の別の一面だという事を。  |妹達《シスターズ》は、ある学生|寮《リよう》の位置を知っている。|御坂《みさか》妹が過去にジュースを運んだ事があるから情報を入手できたのだ。そして現在、学園都市内にいる全|妹達《シスターズ》の中で、御坂妹が最も学生寮に近い位置にいる。この病院には|検体番号《シリアルナンバー》二〇〇〇一号、通称『|最終信号《ラストオ−ダー》』もいるのだが、元元彼女は未完成な個体なので運動能力に期待はできない。  御坂妹は開いた窓の枠に足をかけ、 (最後の確認を行います、とミサカ一〇〇三二号は告げます。学園都市内に残っている全|妹達《シスターズ》はプラン二二八に従い、各自『|残骸《レムナント》』回収のため行動を開始する事) (一〇〇三二号、そちらは全個体の中でも特に肉体のダメージが大きいため、今回は|治療《ちりよう》に専念すべきではないですか、とミサカ一〇七七四号は|懸念《けねん》を表します)  その声が頭に届くと同時、御坂妹の体がわずかに揺れた。  |妹達《シスターズ》は、元々寿命の短い体細胞クローンの体へ、さらに短期間で肉体を作るため、様々な手が加えられている。そうやって狂ってしまった体のバランスを取り戻すために、こうして治療を受けている。  中でも御坂妹は、『実験』当時はあの|一方通行《アクセラレアタ》から|執拗《しつよう》な|攻撃《こうげき》を受け続けたため、衰弱の度合いは|他《ほか》の|妹達《シスターズ》の比ではない。短時間、病院の中を歩き回る程度ならまだしも、実戦並みの本格的な運動を行う事は、あの|冥土帰し《ヘヴンキヤンセラー》ですら許可を下していない。  彼女の体は、今も微熱を帯びている。そしてほんの少しだけバランス感覚が揺らぎ、床が柔らかくなったような気がする。  しかし、それは今だけだ。  規定量以上の無理な運動をこなせば、途端に体内の熱は爆発するだろう。その結果、御坂妹は血を吐いて倒れてしまう危険性すらある。 (構いません、とミサカ一〇〇三二号は返答します)  それでも、御坂妹は告げた。  迷わずに、窓の外の|暗闇《くらやみ》を見据えて。 (この程度の負傷が何なのですか、とミサカ一〇〇三二号は逆に問いかけます。ミサカはあの少年との約束を果たすまでは絶対に立ち止まりません、とミサカ一〇〇三二号は分かりきった宣言を今一度繰り返します)  その声に、ネットワーク上の情報の送受信が、ほんの数秒だけ停止した。  やがて、 一度引いた波が返るように、 (了解、あなたに一任します、とミサカ一四四五八号は首を縦に振ります) (よろしくお願いします、とミサカ一九〇〇二号も賛同します) (ミサカもお願いするー、ってミサカはミサカは|頼《たの》んでみたり。っていうかミサカも何かしたいじっとしているのは耐えられないなんかあっちの方[#「あっちの方」に傍点]もどこかに出かけたきり戻ってこないし、ってミサカはミサカは手足をバタバタ振ってみる)  |御坂《みさか》妹は、わずかに|眉《まゆ》をひそめた。  それから、 (ミサカニ〇〇〇一号、プランニニ八におけるあなたの役割は、そこに待機して情報整理と中継を行う事です、とミサカ一〇〇三二号は警告します。大体それとは別に、あっちの方とは何の事ですか、と……ミサカニ〇〇〇一号? 応答しなさい、とミサカ一〇〇三二号は告げますが期待はできないようです)  |検体番号《シリアルナンバー》二〇〇〇一号『|最終信号《ラストオーダー》』は言いたい事だけを勝手に言うと通信を切断してしまったらしく、御坂妹の呼びかけに答えない。困りました、と御坂妹は適当に考えた。元々、|最終信号《ラストオダー》は|妹達《シスターズ》が暴走した時などに|緊急《きんきゆう》停止信号を送るための上位個体なので、ネットワーク上では|妹達《シスターズ》の方から|最終信号《ラストオ−ダー》へ命令を送ったり行動を制限させる事はできないのだ。 (とにかくミサカはミサカで動きます、とミサカ一〇〇三二号は通信を切断します)  御坂妹は、スカートも気にせずそのまま飛び降りた。|常盤台《ときわだい》中学の夏服が夜風に舞う。着地と同時に足を畳み、|瞬時《しゆんじ》に|衝撃《しようげき》を殺す。元々、彼女は|戦闘《せんとう》用に対戦車ライフルの衝撃を受け流すプログラムを頭に入力されている。たかが二階分の高さの衝撃などダメージにもならない。もちろん、あらかじめ予定に入っていない行動———例えば突発的な戦闘のダメージなどを受け流せるほどの応用高速演算はできないが。  御坂妹はそのまま全力で病院の|敷地《しきち》の外へ走って抜け出す。フェンスを飛び越え、歩道を駆け抜け、迷路のような裏道を使って一気に距離を短縮して走る。  走っている間にも、御坂妹の体から汗がにじむ。もしも彼女が感情表現豊かならば、嫌な感じの汗だと思っただろう。彼女はカエルに類似した顔の医者から|治療《ちりよう》を受けている身だ。それも、|一方通行《アクセラレータ》との戦闘によって|他《ほか》の|妹達《シスターズ》に比べて圧倒的に衰弱した状態で。  だが、構わず走る。  |検体番号《シリアルナンバー》二〇〇〇一号『|最終信号《ラストオーダー》』からの情報が正しければ、『|残骸《レムナント》』は回収され、その残骸を元に『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』は復元、量産化され、結果として『実験』が再開される恐れがある。|弾《はじ》き出された一つの事実は、生き残った一万人近い、全『|妹達《シスターズ》』の命の危機を指していた。  恐れ、そして、危機。  そう判断できるようになった自分自身に、御坂妹は全力で走りながら首を|傾《かし》げる。 「ミサカには、もはや簡単には死ねない理由がある、とミサカは結論づけます。平たく言えばこんな所で死ぬのはまっぴらだとミサカは断言してみます」  そう、あの少年と約束したのだ。  自分には必要な治療がある。それら|全《すべ》てを終えたらまた|一緒《いつしよ》に日常を歩くと。  それは心地良い約束だ。  そして、破られたらきっととても苦しくなる約束だ。  |御坂《みさか》妹は裏路地から表通りへ飛び出てまた別の裏路地へ突入する。ゴミ箱を|蹴飛《けと》ばし、|俳徊《はいかい》していた|野良猫《のらねこ》が慌てて逃げ、御坂妹はほんのわずかに|眉《まゆ》を下げたが謝っている時間はない。  彼女は、こうした事態が発生した時に|頼《たよ》れる人間を一人しか知らない。  論理ではなく経験の問題なのだ。  |故《ゆえ》に、御坂妹は自分の危機を感じて、それをとある少年に伝えようとしているのだ。 「しかし———」  御坂妹は|虚空《こくう》に告げる。助けを求めれば、またもやあの少年を戦場へ送り込む事になる、と。そして同時に思う。たとえ巻き込む事を|避《さ》けるためにここで|黙《だま》っていても、あの少年は『実験』が再開され次第、問答無用で|突撃《とつげき》してくるだろう、と。  そう。御坂妹は断言できる。  あの少年は、絶対に来る。  もう一度『実験』が再開されれば、またもや|妹達《シスターズ》が計画通りに殺されるような事態になれば、どれだけのリスクを背負うかなど考えもせず、ただ一つの|拳《こぶし》を握り|締《し》めて。 「どうあっても巻き込んでしまうのなら事態が悪化する前に告げた方がダメージも少なそうです、とミサカは結論づけます。もちろん、そもそもミサカの問題に|誰《だれ》も巻き込まないのが一番なのでしょうが、他人任せのミサカにはそんな|綺麗事《きれいごと》を言う権利はなさそうです、とミサカは肩を落としてしょんぼりしながら全力疾走を続けます」  裏路地から大通りへ突き出て、靴底を削って急カーブ。御坂妹は人の波を|縫《ぬ》ってさらに速度を上げていく。  |瞬間《しゆんかん》。  バチン! という頭痛が御坂妹のこめかみを|襲《おそ》った。 (……ッ!)  ぐらりと頭が揺らぎそうになる。|妹達《シスターズ》の脳波で作る電気的ネットワークにノイズが走ったのだ。滅多に起きる現象ではない。御坂妹は異常発生の警告メッセージをネットワーク内に送りつつ、原因を探るべく感覚を|研《と》ぎ|澄《す》まし、おでこのゴーグルを顔まで引き下ろし、 (超強度の高圧電流による電波障害……。このような高出力を可能とするのは……お姉様《オリジナル》でしょうか、とミサカは確証のない予測を立てます。場所も半径五〇〇メートル以内と推測できますが……)  ここまで強大な高圧電流となれば、|戦闘《せんとう》以外に用途はないように思われる。御坂妹はそちらも気になったが、今は学生|寮《りよロつ》に向かう方が先だ。再びゴーグルをおでこに引き上げ、彼女はさらに走り続ける。  直後、御坂妹は学生寮の入口に到着した。  そのままエレベーターに飛び込み、七階のボタンを押して、ゆっくりと動く箱の中で自分が少年に告げるべき情報の整理と削除を繰り返す。とにかく時は一刻を争う。最速で正しい情報を伝え、なおかつ状況が抱えている危機感を伝えなければならない。  こんな時間に突然押しかけて、話を聞いてくれるだろうかと|御坂《みさか》妹は考える。正確な時刻を確認したかったが時計がない。ネットワーク上にシグナルを送ると、世界中の|妹達《シスターズ》から様々な現地時刻が|瞬時《しゆんじ》に帰ってきた。統合、再計算して今の日本標準時間を知る。  エレベーターが電子音を鳴らせる。  がこがこと不安定な音を立ててドアが開く。御坂妹は即座に全力疾走を再開する。一列に並ぶドアの内、|何故《なぜ》か最近新しく手すりを作り直した所のドアが目的地の入口だ。  ドアの前で急停止すると、御坂妹は|礼儀《れいぎ》としてインターホンを鳴らし、直後に相手の出方を無視してドアノブを回した。無用心な事にノブは抵抗なく回る。案外この家ではまだ失礼に当たる時間帯ではないのかもしれません、と御坂妹は適当に結論付け、一気にドアを開け放つ。  |上条当麻《かみじようとうま》がいた。  彼と|一緒《いつしよ》にインデックスと呼ばれている少女がいた。  二人とも寝間着姿で、何故か少女は少年の背中によじ登って頭にかじりついていた。|三毛猫《みけねこ》は食らいつく少女を見て動物的な本能が働いたのか、隅っこでぶるぶると|震《ふる》えている。彼らはドアの音に|驚《おどろ》いたように、玄関の御坂妹に注目する。  彼女は考える。  この状況で、この人物に、最速で頭のスイッチを切り替えさせる|台詞《せりふ》は何か。  論理は答えを放棄し、代わりに経験が導いた。  御坂妹は言う。 「お願いがあります、とミサカはあなたの顔を|真《ま》っ|直《す》ぐ見て心中を|吐露《とろ》します」  それを言える自分は何かが変わったのだろうか、と思いながら。 「ミサカと、ミサカの妹|達《たち》の命を助けてください、とミサカはあなたに向かって頭を下げます」  少年は疑問を抱かなかった。  ただ、彼女に先を促した。 [#改ページ]    第四章 決着をつける者 Break_or_Crash?      1  |結標淡希《むすじめあわき》は、自分を捜す|御坂美琴《みさかみこと》を見下ろしていた。  窓の|側《そば》に立つ彼女の|隣《となり》には、白いキャリーケースがある。  ビルの中である。建物の四階に位置するのはピザの専門店だった。ただしデリバリーやインスタントといったイメージはなく、あくまで作品としての料理を出す場所だ。一番値の低い一品でも三〇〇〇円を超える所を見る限り、中高生向けの店ではないのだろう。大学生や教員を主客層として迎えているせいか、午後九時に差し掛かっても一向に閉店の兆しはない。  まっさらなクロスの掛けられた上品なテーブルが並び、店内には静寂を取り除くものの客の会話の妨げにならない程度の控えめなフレンチポップスが、有線放送で流れている。埋まっているテーブルは全体の半分にも満たないが、入口にはすでに|満席《クローズド》の札が掛けてある。適度な席の空き具合も店の空間作りという訳だった。  |虚空《こくう》から唐突に現れた|座標移動《ムーブポイント》能力者、結標を見ても店内に混乱は訪れない。ここはそういう街だ、という認識がすでに出来ているせいか。  結標はその心遣いに甘えて、引き続き外を見下ろす。|件《くだん》の美琴はあちこちを見回した後、どこかの細い道へと入っていくのが分かった。 (は……)  ようやく、息を吸ったような|安堵《あんど》を覚えた。  あの|常盤台《ときわだい》中学のエースを相手にしては、直線的な距離をどれだけ開けた所で何の意味もない。一定距離と共に空気|摩擦《まさつ》で消滅してしまう|超電磁砲《レトルガン》ならともかく、光の速度の|雷撃《らいげき》は、あらゆる間合いを|一瞬《いつしゆん》でゼロに縮めてしまう。  ———距離はどれだけ近くても良いから、とにかく美琴の死角へ逃げ込む事。  ———そして御坂美琴が自分を見失った事実を、安全な場所から確認する事。  重要なのはその二点だ。そのために選んだのが『上』という居場所だった。とりあえずここで敵をやり過ごし、それからゆっくりと逃げる道を探していけば良い。 (うっぷ……ッ!!)  安心した途端、それまで忘れていた猛烈な吐き気が|襲《おそ》いかかってきた。  結標の|喉《のど》が焼き付く胃酸の痛みを発する。それでもかろうじて喉元で腹の中身を押さえつけ、表面上は事なきを得る。軍用ライトを握る手の中に、嫌な汗が|溜《た》まった。  |結標淡希《むすじめあわき》は過去に自分の能力『|座標移動《ムーブポイント》』の制御を誤って事故に巻き込まれている。そのせいで、彼女は自分の体を自らの能力で転移させると、体調を狂わせるほどの壮絶な|緊張《きんちよう》と恐怖に|襲《おそ》われるのだ。  だから、結標は極力自分の体だけは移動させたくない。 (くそ。仕方がないとはいえ、こんな目に|遭《あ》うだなんて)  思えば、あの[#「あの」に傍点]人の命令に従ってVIPを窓のないビルへ案内するのも嫌だったのだ。人間を壁の向こうに送るだけならまだしも、万に一つも失敗があってはならないとして[#「万に一つも失敗があってはならないとして」に傍点]、常に要人と|一緒《いつしよ》に|座標移動《ムーブポイント》しなければならなかった所が、特に。その上、VI?の中には金髪にサングラスの高校生やら赤い髪の神父やら、ちっとも偉そうに見えない連中まで混じっていた。それでも引き受け続けたのは、体の変調を差し置いても従うだけの価値があったからなのだが。  キャリーケースを横に置き、そこに腰を掛けながら、結標は額に浮いた汗をハンカチで|拭《ぬぐ》った。内部の分からない建物の中に飛び込むのはやはり緊張する。オーブンの中に転移すれば丸焼きだし、吹き抜けの上に転移すれば直後に|墜落《ついらく》する。普通はないと鼻で笑っても、万分の一ぐらいはありえそう[#「ありえそう」に傍点]だというだけで十分怖い。  ともあれ、|御坂美琴《みさかみこと》は完全に結標を見失った。どうせ普通の人間は『道路』に従って街を捜索する。なら、ビルの屋上から屋上へ転移していけば地上からの死角になるだろう、と結標は思う。彼女の一度の最大移動距離は八〇〇メートルを越す。が、自分の体の連続移動については自信がない。四度も渡れば胃袋の中身をロからぶちまけ、精神は|錯乱《さくらん》し、能力を使用できる状態ではなくなってしまうかもしれない。  精神衛生を考えるなら、|座標移動《ムーブポイント》で自分の体を飛ばすのは、一度か二度。その移動で完全に相手の|追撃《ついげき》から逃れ、後はゆっくり地上を走って移動するしかないか、と結標はあれこれ計画を組み立てて、  ドブッ!! と。  結標淡希の右の肩に、高級品のコルク抜きが貫通した。 「あ……ッ!?」  見覚えのあるコルク抜き。それはほんの数時間前に、自分が|風紀委員《ジヤツジメント》の少女に突き刺したものだ。結標がその意味を深く考えようとした所で、聞き覚えのある声が背後から飛んできた。 「お返ししますわ。あまりにセンスがなさ過ぎるので、持っていても白い目で見られるだけですし。ついでにこちらも」  声と同時。  ドスドブガスッ!! という泥の詰まった布袋を突き刺すような音が連続した。|脇腹《わきばら》、|太股《ふともも》、ふくらはぎ。心当たりのありすぎる場所に、金属の矢が次々と突き刺さる。  |灼熱《しやくねつ》の痛みが全身で生まれ、脳に収束して|炸裂《さくれつ》する。 「は……が……」  |結標淡希《むすじめあわき》は、窓から店内へ振り返り、視線を移す。店内の客|達《たち》は突然の事態に、戸惑ったような、キョトンとしたような、どうして良いか分からない顔をしている。  そんな中に一人だけ。  上品なクロスを掛けられたテーブルに、不敵な笑みを浮かべる少女が腰を掛けている。  店内が上品過ぎたのが災いしたか。  結標がやってきた時と同じく、|白井《しらい》が空間を渡ってきても|誰《だれ》も|騒《さわ》がなかったのだ。 「慌てる必要はありませんわよ。急所は外してますの……分かりやすいですわよね。自分がやられた場所をそのまま貫けば良いんですもの。ああ、そうでしたわね」  わざとらしく白井はスカートのポケットへ手を入れた。結標は警戒したが、出てきたのは武器ではない。|風紀委員《ジャツジメント》の応急キットのチューブ型止血剤だ。  白井はチューブを指で|弾《はじ》く。止血剤は結標の足元の床にポトリと落ちる。  にっこりと、ツインテールの少女は邪悪に笑って[#「邪悪に笑って」に傍点]、 「どうぞ、ご自由にお使いなさって? 服を脱いで、下着も取って、みっともなく|這《は》いつくばって傷の手当てをしてくださいな。 そこまでやって初めておあいこですのよクズ野郎[#「そこまでやって初めておあいこですのよクズ野郎」に傍点]」  言葉に含まれる敵意を|汲《く》んだのか、あるいは|罵署雑言《ばりぞうごん》の中に自分|達《たち》が組み込まれるのは御免だと考えたのか。それまで|呆然《ぽうぜん》としていた客や店員達は、その時になってようやく|弾《はじ》かれたように出口へ殺到した。上品な空気はかき乱されテーブルや|椅子《いす》は倒され、バタバタという足音と共にあっという間に店内から人が消えていく。  |睨《にら》み合うのは二人だけ。  距離にしてむよそ一〇メートル前後。|空間移動《テレポート》、そして|座標移動《ムーブポイント》。どちらにとっても能力効果圏内であるため、もはや距離などという言葉は何の意味も持たない。  店内の淡じ冷房と|緩《ゆる》やかなフレンチポップスの有線放送だけが、やけに白々しく|響《ひび》き渡る。  |白井《しらい》はテーブルに腰掛けている。  それは余裕からの仕草ではない。実は自分の体さえ満足に支えられない|怪我《けが》の状況を暗に示していた。が、|結標《むすじめ》にしても同じ事だ。両者は全く同じ武器で同じ場所を|攻撃《こうげき》されている。相手のダメージの深さを想像したければ自分の傷を考えれば良いだけだ。 「……やって、くれたわね。でも、こういう、子供みたいな仕返しは、嫌いじゃないわ」  結標は|窓際《まどぎわ》で、キャリーケースに座っている。ゆったりとした仕草を無理にでも演出しようとしているのは、戦うためのバッタリかプライドの問題か。  どちらにしても、二人ともすでに自分の足で歩くのも|辛《つら》い状況だ。  そして彼女達には、もう一つ移動するための力が存在する。 「まずいですわよね」  ニヤニヤと、白井は笑って、 「こんな|騒《さわ》ぎにしてしまったら、あの聡明かつ行動的なお姉様はすぐにでもここへ駆けつけて しまいますの」 「!!」 「|貴女《あなた》の性格から考えて、勝てる人間から何もしないで逃げるような|真似《まね》はしませんわよね?  わたくしにやったように、無意味な傷をたくさんつけて優越感に浸りながら消えていくのが、貴女のやり口かと思っていたんですけれど」  思えば、あの建設途中のビルでの戦いでも、結標は一度も|美琴《みこと》に攻撃を加えていなかった。防戦一方で反撃には出なかったというのは、まともに激突すれば絶対に|敵《かな》わないと結標自身が認めている|証《あかし》に|他《ぽか》ならない。  つまり、|御坂《みさか》美琴がここに|辿《たど》り着いた時点で結標の負けだ。  傷だらけの白井が、無理に戦って結標を倒す必要はない。美琴がここに来るまでの時間を稼げれば、第二の『勝ち』を手に入れられる。  結標はその事実を突きつけられ、しかし虚勢を張るように、 「ハッ。随分と|常盤台《ときわだい》中学のエースを心酔しているようね。でも、超電磁砲にしたって|完壁《かんぺき》な存在という訳ではないでしょうに。例えば学園都市の第一位、あの最強の|超能力者《レベルら》を相手にすれば必殺されてしまうように」 「でも、それにしても、わたくし|達《たち》ごときに届く領域かしらね。あの|超能力者《レベル5》の世界が」  |白井黒子《しらいくろこ》はニヤリと笑う。  ともすれば自分のプライドを捨てるような言葉を、しかし誇らしげに告げる。  それこそが、|御坂美琴《みさかみこと》に心酔している|証《あかし》だと言うように。  |結標《むすじめ》は思わず苦い顔で舌を打ち、 (まさか、そのためにこの|騒《さわ》ぎを……? 単に私に|奇襲《きしゆう》を仕掛けるだけでなく、あの超電磁砲に居場所を知らせる事で己の勝利条件を一つ増やして……ッ!)  ならば、と結標は即座に考えを巡らす。自分にとっての勝敗とは、目の前の|風紀委員《ジヤツジメント》を倒せるかどうかで決まるのではない。超電磁砲に追い着かれるか|否《いな》か、だ。もはや白井黒子など相手にせず、一刻も早く|座標移動《ムーブポイント》でここから逃げなければ———。 「無理ですのよ」  思考を遮るように、白井は告げる。 「|貴女《あなた》に逃げ切る事はできない。分かっていますわよね? わたくしと貴女は大変良く似ていますもの。この状況で、この|怪我《けが》で、この場所で、この能力で、あのお姉様に追われて———さてどうするか。貴女の行く先を、同系統の能力者であるわたくしが予測できないと思ってますの?」 「!? やって……くれる…わね……ッ!?」  |焦《あせ》る。焦りのあまり、結標|淡希《あわき》は二の句が継げない。そんな彼女に、白井は|薄《うす》く薄く笑いかける。 「わたくしがバッタリでも使っているとお思いですの? だとしたらその楽観は即座に捨てなさい。|書庫《バンク》からの事前情報、貴女と|刃《やいば》を交わした時に得た経験、そして同系統能力者としての、似たような心理構造。わたくしは自分の直感を、すでに様々な情報で補強していますわよ」  その時になって、ようやく結標は知る。  白井黒子が取った行動の、その|全《すべ》ての意味を。 (自分と同じ場所にコルク抜きや矢を突き刺したのは、自分と同じ状況を作るため[#「自分と同じ状況を作るため」に傍点]!? 少しでも私と貴女の差を埋める事で、より 層行動パターンを読みやすくするための!)  似たような能力を持ち、似たような|傷口《ハンデ》を持ち、似たような事を思って———これから結標淡希がどう動くのか、白井はそれを先読みしようとしている。  この小娘は捨て置けない、と結標は奥歯を|噛《か》む。  たとえ|座標移動《ムーブポイント》を駆使して逃げた所で、必ず逃走先を暴かれる。それでは地球の裏側に逃げても安心できない。できるはずがない。 たった一度の移動ですら、胃袋が絞られるような苦痛が|襲《おそ》うのだ。  それなのに、せっかく決死の覚悟で行った|座標移動《ムーブポイント》を、こんな小娘に何度も無効化されるなんて耐えられない。そもそも、|結標《むすじめ》は自分の体に関しては三回、四回の連続移動が限界だ。貴重な転移は|無駄《むだ》にしたくないのだ。  ならば、 「そう。|貴女《あなた》の勝利条件はただ一つ。お姉様が到着する前に、このわたくしを排除する事」  |白井黒子《しらいくろこ》は悠然と告げる。 「対してわたくしには二つ。直接貴女を倒すか、お姉様の登場を待つか。———どちらが優位か宣言しなければなりません?」  それこそが言外の宣言であるのに対し、結標は|驚愕《きようがく》する。自分の中にあったはずの選択肢が、次々と|狭《せば》められていくような気がする。  結標は|戦標《せんりつ》に体を|震《ふる》わせ———しかし、首を横に振った。  違う。  気づいた。  目の前の|風紀委員《ジヤツジメント》は、超電磁砲の介入を良しとしていない。  巻き込むつもりなら[#「巻き込むつもりなら」に傍点]、初めから超電磁砲を連れてここへ転移してくれば良かったのだから[#「初めから超電磁砲を連れてここへ転移してくれば良かったのだから」に傍点]。  結標は小さく笑う。  一つの事が分かると、次々と新しい事実が|湧《わ》き上がってくる。  それとも、相手の考えが分かるのは意図的に条件を整えさせられた弊害か。  意識が冷える。  冷静さが取り戻されていく。 「まったく……素晴らしい|愛縁奇縁《あいえんきえん》ね。結局貴女は、わざわざ自らが勝つチャンスを二度も放棄したんでしょう?」 「……、」 コ度目は、超電磁砲を連れてここへ来なかった事。そして二度目は、今の|奇襲《きしゆう》。勝ち負けの形にさえこだわらなければ、脳でも心臓でもぶち抜いて私を殺せたはずなのに。それらが|全《すべ》て、あの超電磁砲の|可愛《かわい》い寝言のためだとしたら、貴女は本当に哀れだわ」  問いかけの途中で、白井の体がわずかに揺れた。  結標はその意味を知っている。同じ傷を同じように受けた身ならば。  傷のダメージは相当なものだ。  加えて白井は、その状態で何時間も結標を追跡している。失った体力は、傷口を|塞《ふさ》いだ程度で回復するものではない。結標以上に消耗しているのは白井の方なのだ。今ここで傷ついたばかりの結標と、傷ついたまま走り続けた白井とでは体力の残量が違う。  だから結標は笑う。自分の優位と、相手の|無謀《むぽう》さに。 「無様ね。素直に第二希望で妥協しておけば良かったものを、どうして無理に第一希望を|狙《ねら》うのかしら。そこまでして、自分の命を危険にさらす価値があるというの?」  キャリーケースの上に座ったまま、|結標淡希《むすじめあわき》は聞く。 「超電磁砲が、身勝手に思い描く世界を守る事が」  声に、|白井黒子《しらいくろこ》は改めて結標淡希の顔を見る。  白井の目に、強い意志の光が宿る。力の入らない足腰を支えるようにテーブルに腰を掛け、だらりと下がった腕をわずかに揺らし、それらの仕草が己の手札の少なさを結標に伝えてしまっている事に気づいていても。もはや虚勢など張らず、ただ己の敵を正面から見据える。  ともすれば間抜けに見える状況で、しかし白井は迷わず答えた。 「……守りたいですわよ」  ただでさえ残りの体力は少ないはずなのに、こんな所に注ぎ込んで。 「守りたいに、決まっていますの。当たり前でしょう? どれだけ身勝手でも、わたくし|達《たち》の事情なんてこれっぽっちも考えていなくても、お姉様はね、望んでいるんですのよ。わたくしも、|貴女《あなた》も、こんな事などしなくても良い状況を。|馬鹿《ばか》みたいに身勝手でしょう? お姉様はね、わたくしも、貴女も、みんな一人でぶん|殴《なぐ》って|叱《しか》って説教して、それで終わりにしようと本気で考えているんですのよ[#「終わりにしようと本気で考えているんですのよ」に傍点]。こんな|土壇場《どたんば》まできておいて。わたくしはもちろん、ここまでやらかした貴女の身をも助けようなんて[#「ここまでやらかした貴女の身をも助けようなんて」に傍点]、本気で考えていますのよ」  白井黒子は笑う。  皮肉ではない、ただの笑みだ。 「争って欲しくないと、殺し合いなんかやめて欲しいと、この状況を見て真顔て言えるような人なんですのよ、お姉様は。この黒子さんの姿を想像して何も感じなかったはずはないのに、その気になれば貴女なんか五秒で粉々にできるはずなのに———だからこそ[#「だからこそ」に傍点]、それをしない[#「それをしない」に傍点]。どうにかできないかと。ちょっと指でコインを|弾《はじ》けば即座に終わるくせに、この|期《ご》に及んでまだ何とかならないかと願うばかりに余計な苦労を一人で背負って」 「……、」 「そんな馬鹿馬鹿しいほど稚拙な願いを、この白井黒子が蹴るとお思いですの? 不意打ちで貴女の脳天を金属矢でぶち抜いて! 死と鮮血でさっさと幕を下ろして! 自分の保身のために! 他人様が広げた|風呂敷《ふろしき》を汚すような無粋を働くとでも思いますの!?」  白井は叫び、腰を掛けていたテーブルからゆっくりと立ち上がる。|震《ふる》える足で、しかし力強く。ここから先は本気の時間だと告げるように。 「これから貴女を日常へ帰して差し上げますわ。どこかで|誰《だれ》かが願い、このわたくしが賛同した通りに」 「ならば、それを裏切れれば私の勝ちかしらね」  |結標淡希《むすじめあわき》はキャリーケースに腰を掛けたまま答える。  付き合う気はないと言わんばかりに。      2  結局、話は簡単だと|白井《しらい》は思う。  白井にしても結標にしても、傷によるダメージは深刻なものだ。傷口は|塞《ふさ》いでも即座に体力は回復しない。おそらく一発でも先に当てれば———そう、軽く相手を押すような一発でも当たれば、それで終わるだろう。無数の貫通傷を持つ白井|達《たち》は、床に転んだだけで傷を中から広げかねないからだ。 (本気で、力を振るって戦うとなれば……|保《も》って、一〇秒が良い所ですわ)  わざわざ|攻撃《こうげき》を受けずとも、全力で手足を動かしただけで傷口は開く。そして、特に白井には残りの体力はわずかしかない。これ以上血を失えば即座に意識は落ちるだろう。  結標の力は圧倒的だ。もしも『|空間移動《テレポート》能力者は似た系統の能力者を転移させられない』という条件がなければ、即座に白井は壁や地面の中にでも突っ込まされた事だろう。  右井と結標は|睨《にら》み合う。  一〇メートルという距離を空けて。  窓の外からは、雑多な音が聞こえてきた。  |美琴《みこと》が乱撃したビルの鉄骨の一部が崩れたのか、|鐘《かね》を鳴らすような音が一度|響《ひび》く。  それが、合図となった。  白井はさっきまで座っていたテーブルに|拳《こぶし》を振り下ろす。手の|皮膚《ひふ》が裂ける感覚と共に、テーブルの上にあった食器皿が勢い良く砕け散る。鋭い破片を|捌《つか》み、|空間移動《テレポロト》の準備を開始。|空間移動《テレポート》によって飛ばされた攻撃は、あらゆる物体を内側から引き裂く必殺の一撃と化す。点と点の移動であるため、直線上を塞ぐように壁を作っても防ぐ事はできない。  |刹那《せつな》、結標は|座標移動《ムーブポイント》を実行。  彼女の軍用ライトの動きに合わせ、銀のトレイが白井の体へ直接|叩《たた》き込まれようとする。ただのトレイと言っても、|座標移動《ムーブポイント》の直接攻撃は、人体を軽々と貫通させる。当たれば閻違いなく即死だ。  しかし、それより先に白井は動いた。  ほんの一歩分、その体が横へ転移する。銀のトレイのギロチンが|虚空《こくう》に出現し、ストンと床へ落ちていく。  結標の力は強大だが、しかしタイミングを取るためなのか、発動前に軍用ライトを動かすクセがある。相打ちを|避《さ》けるため、そこにカウンターを|狙《ねら》うのは難しいが、|回避《かいひ》そのものは大した問題ではない。 「チッ」  |結標《むすじめ》はわずかに|眉《まゆ》を寄せる。軍用ライトを振り回すと、周りにあったテーブル五、六脚が|虚空《こくう》へ消え、結標の目の前に出現する。折り重なるように積み上げられたテーブルは、巨大な盾となって結標の体を|覆《おお》い隠す。 (転移ミス…-の訳がありませんの! 回避用の目隠しの盾ですわね……ッ!!)  前にも|喰《く》らった手だ。座標|攻撃《こうげき》は点と点の移動であるため、目的の座標からわずかでもズレれば攻撃は避けられる。結標は自分が移動した事を悟らせないために壁を作ったのだ。 (なら!!)  |白井《しらい》は|空間移動《テレポート》を実行。  食器皿の破片を掴んだまま[#「食器皿の破片を掴んだまま」に傍点]、自分の体ごと標的の座標へと移動する[#「自分の体ごと標的の座標へと移動する」に傍点]。  テーブルの壁の向こうへと着地した白井は、さらに食器皿の破片を構え、 (目測修正、ですの!)  目の前の壁が視界の|邪魔《じやま》をするなら、その内側へ飛び込んでしまえば良い。そして改めて標的との座標を測り直して、食器皿の破片を転移・射出すれば結標に当てられる。  結標|淡希《あわき》は自分の体を即座に|座標移動《ムーブポイント》させる事はできない。  決着を願い、白井は鋭い破片の狙いを定めようとして、  ヒユツ、と。  白井|黒子《くろこ》は、風を切る音を聞いた。  眼前に、ほんの一歩下がった位置に、結標は立っていた。両手で重たいキャリーケースの取っ手を|掴《つか》み、腰のひねりを加えて横回転の一撃を思い切り白井の顔面へ|叩《たた》き込もうとしている。両手をキャリーケースで|塞《ふさ》いだ彼女の口には軍用ライトが|唾《くわ》えてある。  結標の顔は、あらかじめ予測していたというより、 (念のための保険が当たってホッとしてるって感じですわね……ッ!!)  眼前に迫るキャリーケースの角に対し、白井は手の中の鋭い破片を|空間移動《テレポート》で飛ばす。コの字型の取っ手を切断するような座標へ。  キャリーケースがあらぬ方向へ吹っ飛んだ。  取っ手だけを掴んだ結標の両手が、|驚《おどろ》きの表情と共に振り切られる。 (狙うなら……今!!)  白井は傷ついた右腕に全力を注ぎ、その小さな|拳《こぶし》を硬く握る。  この距離ならいちいち能力の計算をするより拳で|殴《なぐ》った方が早い。  が。  結標が、わずかに軍用ライトを嘆えた顎を手前に引いた[#「わずかに軍用ライトを嘆えた顎を手前に引いた」に傍点]。 「!!」  |白井《しらい》は慌てたが、しかし|結標《むすじめ》の予想外の動きに、能力の発動まで思考が追いつかない。  とっさに足で一歩後ろへ下がる白井の眼前が、単一の色彩で埋め尽くされた。白だ。キャリーケースの色だ、と気づいて彼女はゾッとした。あらぬ方向へ飛んでいったケースを、結標が白井の手前に呼び戻したのだ。吹っ飛んでいった勢いは殺さず、そのまま白井の顔に刺さるように向きを修正して。  白井が後ろに下がらなければ、彼女の頭は|虚空《こくう》から出現したキャリーケースに喰われていた[#「喰われていた」に傍点]かもしれない。  が、それを免れた所へ、完全に出現しきった重たいケースが彼女の顔目がけて飛んでくる。  気づいた所で遅い。  ドフッ!! と。|轟音《ごうおん》と共に白井の顔面に、重たい|一撃《いちげき》が突き刺さった。|衝撃《しようげき》で体が後ろへ|仰《の》け反る。倒れていく自分の体を支えられない。全身の|皮膚《ひふ》が引きつれ、肩や|脇腹《わきばら》の傷口から熱いものが噴き出るのを感じる。握った|拳《こぶし》がそのまま宙を泳いだ。耐えようとする白井の意思に反して、彼女の両足が床から浮く。  倒れる、と思った|瞬間《しゆんかん》、白井は|空間移動《テレポート》を実行。  白井の体が虚空へ消える。倒れそうな姿勢のまま、しかし彼女は結標の背後に、後ろ向きで出現する。倒れる勢いを殺さず、彼女はそのまま|肘《ひじ》を後ろへ突き立てて結標の背中へ直撃する。結標の体は手前のテーブルの山へ突っ込んだ。白井はそれを確かめる前に床へ倒れ込む。衝撃で、今度こそ完全に全身の傷口が開いた。 (ぎっ……あ……ッ!!)  白井は最後の力を振り絞り、決着をつけるため、床に転がったまま手近にあった物を|掴《つか》む。それは切断したキャリーケースの取っ手だった。白井の|空間移動《テレポート》射撃に、物体の鋭さは関係ない。 (これで———決まりですわ!!)  白井は心の中で叫び、同時に|狙《ねら》いを定めて計算式を組み上げ、握った取っ手を飛ばそうとして、 (……ッ!?)  しかし、力は使えなかった。  手の中にある武器は、ピクリとも動かなかった。  |湧《わ》き上がる激痛と|焦《あせ》りのせいで、集中力が|削《そ》ぎ落とされ、能力が発動しない。 「そ、んな———ッ!?」  その事実が白井をさらに焦らせる。相手も自分と同じく痛みで能力を阻害されていれば、と半ば楽観的な希望と共に正面を、そこにいる結標|淡希《あわき》を見たが。  聞こえたのは、ヒュン、という音。  見えたのは、結標が突っ込んでいたテーブルの山が全部なくなった事。  口に|咥《くわ》えていた軍用ライトを、|串焼《くしや》きの肉でも|喰《く》らうように手で引き抜いていた事。  ゾッという|悪寒《おかん》と共に。  |白井黒子《しらいくろこ》はとっさに転がってその場から離れようとしたが。  そんな彼女の真上に出現した無数のテーブルが、重力に引かれて次々と降り注いだ。 「……ッ!!」  白井はうつ伏せに倒れたまま、両手で頭の後ろを|庇《かば》うように組む。鈍器の重たい|攻撃《こうげき》が次々と降り注ぎ、肉を打ち、傷口を内側から|響《ひび》かせる。のた打ち回ろうにも、のしかかる重量がそれすらも上から封じ込む。  |狭《せば》まる視界の中、白井は|結標《むすじめ》がテーブル落下に巻き込まれないように、倒れたまま床を|蹴《け》って後ろへ下がったのを見た。手足を貫通した矢が結標の傷を広げ、彼女は絶叫する。それでも取っ手を失ったキャリーケースを|座標移動《ムーブポイント》で手元へ回収し、結標はそれに寄りかかるようにして白井を|窺《うかが》う。  結標は近くにあった|椅子《いす》を軍用ライトの先端でなぞる。  ゆっくりと、ゆっくりと。 「白井さん。|避《さ》けなきゃ死ぬわよ」  ニタニタと笑う結標は、椅子の背に軍用ライトを|這《は》わせ、それを滑走路にしたように、先の丸まった先端を、ビッ! と白井に突きつける。 「!!」  白井の顔が真っ青になるが、かと言って彼女はもう|空間移動《テレポート》も使えない。  |震《ふる》える白井のすぐ横に、|座標移動《ムーブポイント》によって椅子が出現した。テーブルが押し|潰《つぶ》され、彼女の 上に|覆《おお》い|被《かぶ》さっている山が|雪崩《なだれ》を起こした。まるで、トランプのピラミッドが崩れるように。 しかし、テーブルの山は形を変えただけで、やはり白井の動きを封じている. 「ふうん。これだけやっても動きがない所を見ると、本当に|空間移動《テレポート》の計算式を組み上げられないようね」  結標の表情から|緊張《きんちよう》が取れていく。  笑っている。  開いた傷口から飛び散った血は|頬《ほお》に当たり、それでも結標|淡希《あわき》は笑っている。 「ねえ白井さん。白井黒子さん。こんな話は知っているかしら。まったく、あの人の近くにいると様々な話が耳に入るんだけど」  口ずさむように結標は続ける。  結標は体中に突き刺さった金属矢やコルク抜きの位置を確かめ———深呼吸と同時に軍用ライトを振ると、|全《すべ》ての異物が一斉に|虚空《こくう》へ消え、結標の顔の前に再出現する。重力に引かれた金属矢とコルク抜きが硬い音と共に床に落ちた。 「昔々、ある所に強大な能力者と組織があったの」  彼女は立ち上がって距離を取るより、先に激痛の発生源である体中の傷口の手当てを優先させるつもりらしい。周囲を見回し、応急処置に使える物がないか探るような視線を投げる。|白井《しらい》が投げたチューブ型止血剤が床に転がっていたが、ある種のプライドがあるのか、|結標《むすじめ》は足でチューブを遠くへ|蹴飛《けと》ばす。 (こ、こで、|治療《ちりよう》を……? わたくしの前で無防備な姿をさらすなんて、どういうつもりですの。大体、お姉様がこちらへ向かってきている可能性だって否定できないはずですのに……)  白井は疑問に思ったが、結標の表情にはある種の余裕がある。  結標が自分の体に刺さった矢を抜いた事で、開いた傷口から鮮血が舞う。  それでも、結標の顔からは笑みが消えない。それが逆に|凄惨《せいさん》だった。 「組織はその強大な、しかし数の少ない能力者を、どうにか増やせれば|凄《すご》い力が手に入ると考えたのね。そして強大な能力者のクローンを作ろうとした。その結果がどんなものか、ご存知かしら?」  白井|黒子《くろこ》は動けない。  テーブルとテーブルの|隙間《すきま》から何とか飛び出た手は、しかし宙を泳ぐだけでテーブルを動かす事も目の前の敵に|攻撃《こうげき》する事もできない。  結標はその様子に満足しながら、自分のスカートの端を手で破いて、|太股《ふともも》の傷を|塞《ふさ》ぐように|縛《しば》り付ける。  |御坂美琴《みさかみこと》はまだ来ない。  これだけの|戦闘《せんとう》を起こし、客や店員を外に追い出した以上、|騒《さわ》ぎは必ず外まで伝わっているはずだ。それが美琴の耳まで届かなかったのか、あるいは届いていても、『|残骸《レムナント》』に関する事ではないと判断されたのか。  白井は美琴を現場に呼びたくないとは思っていたが、逆に来なければ来ないで心配になる。まさかと思うが、まだ結標の一派の残党のようなものがいて、美琴の足止めをしているのではないか、と。  何より奇妙なのは、 (結標は……どうして、そんな余裕の顔を……? まさかその姿で、お姉様と戦って勝てるとても思っていますの……?)  |怪詩《けげん》そうな白井に対し、結標は若干の余裕を含んだ声で、 「散々だったのよ。出来上がった哀れな子羊|達《たち》は、だけど一%の力にも達しなかった。一%未満でも十分世間に通用するレベルだったけど、その強大な能力者に対しては一万でも二万でも、数を集めて束になってかかっても|敵《かな》わないレベルでしかなかった」  血まみれのまま、結標|淡希《あわき》はさらにスカートを破いて、ふくらはぎの傷も縛る。  もしかすると、この冗長な話は自分が何か結標のプライドをひどく傷つけたため、結標が無意識の内に『決定的な勝利』を求めているからかもしれない、と白井は適当に考える。  結標は、ただでさえ短いスカートから下着が見えるのも構わず、淡く|微笑《ほほえ》んで、 「ねえ|白井《しらい》さん。クローニング技術で生まれた子供は、遺伝子レベルで同じ骨格を持つのよ。脳の構造だって、オリジナルと全く同じはず。にも拘らず得られた能力に差が出たのは何故かしら[#「にも拘らず得られた能力に差が出たのは何故かしら」に傍点]」  過剰な自信に満ちた声だった。白井はそれに吐き気を覚えたが、しかし無視し続ければ、彼女は即座に興味を失い、どこへでも逃げてしまうだろう。キャリーケースと|一緒《いつしよ》に。 「く、だらない、仮説ですわね。学園都市の学校が、どんな風にランク付けされているかも、ご存知ありませんの……?」  同じ人材でも、育て方で才能の開花の仕方は変わってくる。だからこそ様々な能力開発理論が生まれ、学校にも優良校や名門校などのランク付けがされていくのだ。  しかし、|結標《むすじめ》は特に感情を荒立てる事もなく、 「いいえ。作られた個体|達《たち》は、人工的にオリジナルと全く同じ才能開花を迫られた[#「人工的にオリジナルと全く同じ才能開花を迫られた」に傍点]。それでもやはり結果は追い着かなかった。同じ脳を使って同じ結果が出ないなら、単純な脳の構造以外の項目[#「単純な脳の構造以外の項目」に傍点]が能力開発に|関《かか》わっているとは思わない? そして、その項目を見つけ出す事ができれば、人間の脳以外の演算装置だって、能力を扱えてしまうという事になってしまわないかしら」  つまりよ、と結標|淡希《あわき》は|頬《ほお》に跳ねた己の血も気にせず、ふと傷の処置の手を止めて、 「能力の発現に、人の脳を使う必要なんてあるのかしらね?」  白井は思わず息を|呑《の》む。  学園都市で開発されている能力とは、量子論的な考えを|飛躍《ひやく》させたものだ。『|自分だけの現実《パーソナルリアリテイ》』という、意図的に歪めた演算機能と判断能力を使って現実の観測と分析を行う[#「意図的に歪めた演算機能と判断能力を使って現実の観測と分析を行う」に傍点]。そしてその結果に応じて極めてミクロな世界の確率を不自然に変動させる事[#「不自然に変動させる事」に傍点]で何らかの現象を生み出している。 「何を……言ってますの?」  しかし、白井は思わず返答を口に出していた。 「学園都市の、|時間割り《カリキユラム》は……脳に関する学問の集大成のはずですわよ?」 「そうよ、けれどね。物事の現象に対する演算処理……つまり対象の観測と分析。それはそもそも、人間でなければ成せない|業《わざ》なのかしら」結標は愉快そうに、「例えば、植物だって光を観測できるわ。植物の中には夜間は葉や花を閉じているものだってある。そうした植物は、この世界を観測しているとは呼べないの?」  結標は肩の傷を|塞《ふさ》こうとしたが、スカートはほとんど破いてしまって使い物にならない。彼女は羽織っていた冬服のブレザーを脱ぎ、長い|袖《そず》を肩の所で破いて包帯代わりにした。  まずい、と白井は思う。  結標の応急処置が終われば、彼女は次の行動に出る[#「次の行動に出る」に傍点]。しかし、この状況で少しでも彼女の行いを妨害するには、口で|攻撃《こうげき》するしかない。 「ば、|馬鹿馬鹿《ばかばか》しい。そんな事があるはずないでしょう? 単に光に反応するだけで良いなら、紫外線を浴びて|色裾《いろあ》せていく写真やポスターだって観測できている事になってしまいますの。その情報をどう|捉《とら》えるか、能力の肝はそこですわ。ですから、学園都市はわざわざ他人とは異なる『|自分だけの現実《パーソナルリアリテイ》』というものを開発しているのでしょう? 特殊な五感ではなく、特殊な処理能力を」  |白井《しらい》の言葉にも、|結標《むすじめ》はあまり感情の波を見せない。  最後に残った|脇腹《わきばら》の傷に対し、結標は軍用ライトを挟んでいた腰のベルトで|塞《ふさ》こうとした。 が、金属板を|繋《つな》げた分厚いベルトではそれも望めない。  彼女は代わりに胸元を|覆《おお》っていたピンク色の帯状の布地を外して腰に巻きつけた。同性とはいえ、赤の他人に胸を見せる事に彼女はためらいを覚えないらしい。せいぜい申し訳程度の感覚で、|露《あらわ》になった胸を隠すように、結標は|袖《そか》の破れた冬物のブレザーをかき寄せながら、 「高度な精神活動ができなければ能力は扱えない、と?」  ええ、と答える白井は、しかし胸に不安のざわつきを感じていた。|誘導《ゆうどう》されている、と思う。その証拠に、結標は反論されても全く動じていない。 「ならばアリはどうかしら? 群れで行動する彼らは集団心理を用いて巣の作製や|餌《えさ》の確保を行い、アブラムシという異生物から|蜜《みつ》をもらいテントウムシを撃退するという簡易的な契約活動すら実現しているわ。いわば原始的な理性ね。……彼らの精神構造を|歪《いびつ》と呼ぶなら、|貴女《あなた》はレベルに違いこそあれ類似する人間の思考タイプを否定する事になるわよ」  傷口を|縛《しば》る布が|緩《ゆる》まないか確かめながら、結標は告げる。 「そんな|屁理屈《へりくつ》を……」 「屁理屈? 彼らだって王アリ、女王アリ、働きアリといった身体的特徴による分業杜会を形成しているわ。触角や、種類によっては発光器官などを使った信号的コミュニケーション能力を有する事すら貴女には低度精神活動として切り捨てられてしまうのかしら。だとしたら、貴女にとって人間らしい高度精神活動とは何? 倫理や道徳なら昆虫だって持っているわ。親アリだって自分の卵ぐらいは守るわよ」  結標|淡希《あわき》は|薄《うす》く薄く薄く笑って、 「現象の観測なんて、アリでもできる」  さらには、と彼女は一度区切って、 「彼らと私|達《たち》。どちらが正しく現象を捉えているかなんて、貴女に決められるものなの? そして彼らには永遠に|能力《スキル》を使えないと、|何故《なぜ》貴女は断言できるの?」  白井|黒子《くろこ》の全身を、寒気が|襲《おそ》いかかる。  能力者という自分自身の土台を否定されつつある、一つの|震《ふる》え。  彼女は結標淡希が寄りかかっているモノを見る。 「人間と同等か、人間より優秀な存在なんていくらでもいると思わない? |貴女《あなた》がそう思えな いとしたら、それは人間の|傲慢《エゴイズム》というものじゃないかしら」  |結標《むすめじ》は|緩《ゆる》やかに|微笑《ほほえ》みながら、キャリーケースの表面を指先で|撫《な》でる。  「少し視点を変えれば、『それ』は案外身近な所にあるのが分かるかもしれないわよ。そう、 とても身近な所に[#「とても身近な所に」に傍点]、ね」  キャリーケースの表面が、照明を浴びてギラリと光を反射させる。 『|残骸《レムナント》』。 『|演算中枢《シリコランダム》』。 『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』。  人間よりも高度で、人間よりも巨大で、人間よりも複雑で……けれど、わずかに人間よりも柔軟性に乏しい人造の頭脳。 「ねえ|白井黒子《しらいくろこ》さん。『頭脳』なんて呼ばれるものは、人間以外の存在にだってくっついているでしょう? もしも貴女が、そんな簡単な事実すら認められないほどの人間至上主義者だとしたら、私は少し失望してしまうかもしれないわね」  アリでもできる現象の観測。  頭脳さえあれば発現できるかもしれない超能力。  人聞である事が絶対に必要ではないとしたら。  ならば、ならば、ならば。 白井黒子は、結標|淡希《あわき》が寄りかかっているキャリーケースを眺める。 「ま、さか。そのデカブツの心臓部に、わたくし|達《たち》と同じような能力が発現すると? 貴女、本気でそんな事を考えていますの? それは機械に心があると言うのと同じレベルの寝言ですわよ」  しかし。 しかし、そもそも『現実を観測して分析する』だけの作業に『人間の心』などという高度なシステムは必要あるのだろうか、と白井は迷い始める。  対して、結標はムキにもならず、 「ええ。この程度では無理でしょうね[#「この程度では無理でしょうね」に傍点]。機械は|所詮《しよせん》、機械。例えばデジカメの手プレや|露出光《ろしゆつこう》を調整するAIが物事の現象を前にした所で、演算チップにできるのは光学情報を画面上に画素配置するだけ。そもそも情報処理の方向性そのものが現象の観測とは大きく外れているもの」  その顔に余裕すら見せて、 「さらには、確かに私達のような能力を使える動植物も発見されていない。本当にそんなものかあるかどうかも分からない。けど」 キャリーケースの表面を撫で、 「これがあれば、予測ができる[#「予測ができる」に傍点]。あらゆる現象を完全に再現する究極のシミュレートマシンを便えば、現在この世界でまだ発見されていない可能性も一万年後の生物の進化経過も、その|全《すべ》てを|完壁《かんぺき》に見せてくれる。だから私は、この『|残骸《レムナント》』を組み立て『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』を手に入れる。そして目の前にある全ての可能性に問いかけるの。人間の代わりに超能力を扱える個体は存在するか否かを[#「人間の代わりに超能力を扱える個体は存在するか否かを」に傍点]」  その目には異様な光が宿っていた。  光の名前は妄執だ、と|白井《しらい》は思う。 「|貴女《あなた》は、そのために……外部組織と、接触しましたの……?」 「ええ。いくら価値ある『|残骸《レムナント》』を手に入れても、私一人では修復できないわ。だからそれを組み立てられる技術と知識、そして目的を持つ集団が必要だった」  |結標淡希《むすじめあわき》は笑う。  その外部組織までが結標の思想に|溺《おぽ》れたとは考えにくい。彼らには彼らの目的が別にあるのだろう。『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』、そのスペックを見れば欲しがる者などいくらでもいるはずだ。 「白井さん。貴女は初めてその能力を手に入れた時、どんな気分がしたかしら?」  身動きは取れなくても、口は動く。  白井はテーブルの下で、さも当然のように言った。 「べ、別に。周りの大人|達《たち》は結構|騒《さわ》いでいましたが、手に入れた当人としては|驚《おどろ》くような事でもありませんでしたわ。わたくしにとっては、それが普通でしたので」 「そう。———私は、正直恐ろしかったわ」  結標は子供の|頃《ころ》の思い出を語るように、 「この能力で何ができるか考え、|怯《おび》えて。実際にその通りの結果が出てしまい、さらに脅えて。私はね、白井さん。この手に力がある事がこの世の何よりも怖かったの。|他愛《たわい》ない想像の通りに人すら殺せてしまうだろうこの力が」現在の少女に、過去の|震《ふる》えはすでにない。「それでも仕方がないと思っていたわ。これは私達にしか持てない力で、それは自分の知らない所で研究・解析されて、そして世界のどこかで役立っていく。だから私は力を持たなければならなかった。何とかそれで我慢してきたのよ。それなのに」  結標は笑う。  ゆらりと、溶けたアイスクリームのように口を真横に裂いて。 「この力が私だけに宿るものではないのなら、私に宿す必要なんてなかったじゃない。仮に、ヒトでなくても良いのなら、|何故《なぜ》ヒトに力を与えるの? もしも私でなくても良いのなら、何故私はこんな力を持っているの? ねえ白井さん。当然と信じて思考を止めているそこの貴女。あの大人達[#「あの大人達」に傍点]は別として、|一緒《いつしよ》にいた能力者の子達は私と同じ思いを持っていたのよ? 作りかけのビルであの子達を盾にしたけど、最初に進言したのはあの子達だったの。あの子達は意識が落ちる前にこう言ったわ。任せたと、ただ一言を笑みと共に」 「……、」  頑張っても能力を持てなかった、|無能力《レベル0》の子供|達《たち》が不良に転落する話は良く聞く。  が、それと同じなのだ。  たまたま強大な能力を持ってしまった者の中にも、|馴染《なじ》めない人間だっているはずだ。  超能力なんてものは、|怪獣《かいじゆう》映画の怪獣と同じだ。  みんなと|一緒《いつしよ》に暮らすなら、足の|爪先《つまさき》を立てて細心の注意を払って街を歩くしかない。自由気ままに大きく一歩を|踏《ふ》み出したら、それだけで建物が|壊《こわ》れてしまう。実際、|超電磁砲《レールガン》クラスになれば目一杯の本気で力を使う方が珍しいだろう。常に外側からの圧力で力のセーブを要求される生活。それはある意味、|手枷《てかせ》や足枷をつけて暮らしているのと変わらない。 「知りたくはない? 本当に、私達がこの力を持たなければならなかったのか|否《いな》か。理由があるにしても、ないにしても、それをきちんと確かめてみたくはない?」  |結標淡希《むすじめあわき》は、両手をそっと広げる。  まるで、|白井黒子《しらいくろこ》を招くように。 「|貴女《あなた》にだって、あるんでしょう? 自分の能力を使って|誰《だれ》かを傷つけてしまった事が。そして思ったでしょう? |何故《なぜ》こんな力を宿さなくてはならなかったのかと」  抱き寄せるように。吸い寄せるように。  今まで白井にトドメを刺さなかったのは、この言葉を告げるためだと言うように。 「私には分かる。私と貴女は似ているもの。|瞳《ひとみ》を閉じれば思い浮かぶわ、貴女がどんな風に人を傷つけてきたのかが。だからこそ」  歌うように。恋人の耳にささやくように。  そもそも結標淡希は、本気で白井黒子を殺す気はなかったのだと語りかけるように。 「私には貴女の苦しみが分かる。誰よりも、ね。そして苦しみが分かるから、それを取り除く力法も手に取るように理解できている。どう、白井さん? 共に真実を知る気があるなら、私ほ貴女を招待するわよ」  |御坂美琴《みさかみこと》がやってくるリスクを背負ってでも長話を続けたのは、この|台詞《せりふ》のためだと宣言するような表情だった。  結標の言葉は、能力者なら絶対に疑問に思う事かもしれない。  この街の能力者でケンカをした者なら、一度は必ず考える事がある。  どうすれば、自分の力を使って相手を上手く傷つけられるか。  それは、どの程度のダメージを与えるものか。  痛いか。苦しいか。壊せるか。止められるか。|薙《な》ぎ倒せるか。吹き飛ばせるか。  そして全部終わった後で、ふと寒気に|襲《おそ》われるのだ。  そもそも自分は、どうしてそんなものを持っているんだろう、と。  だから、結標は言う。  本当に、あの時感じた寒気は覚えなければならないものだったのか、と。  その疑問に答えるために、外部組織と接触して『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』を組み立てないかと。  |白井《しらい》は歯を食いしばる。  自分に力を与えられた理由。  自分に力を与えられなくても良かったかもしれない理由。  彼女は己の心の支えを作る、ある種の土台のようなものが揺らぐのを感じ、 「お断りですわ、そんなもの」  白井はテーブルに押し|潰《つぶ》されたまま、しかし鋭い眼光をもって|結標《むすロめ》を|睨《にら》みつける。低い声で、|威嚇《いかく》を放つように。 「これだけの事態を起こしてどんなに大層な言い草が出てくるかと思えば、|所詮《しよせん》はその程度ですの? お姉様の|仰《おつしや》る通り、悪党はやはり言う事が小さいですわね」 「なん、ですって……?」 「当たり前の事にいちいち反応しないでくださいな。そんな自分に酔っ払った|台詞《せりふ》で、この白井|黒子《くろこ》を丸め込めるとでも思っていますの? 今までの余裕は、もしかして|貴女《あなた》に共感したわたくしが、さらにお姉様を説得するかもしれない、なんて思っていたんじゃありませんわよね?あら、もしかして貴女。わたくしに冷めた目で見られる事でゾクゾクしたかったんですの?」  大体、と白井は付け加えて、 「動物? 進化? 可能性? ハッ、、今さらそれが何だと申しますの。小さな小さなアリっころを品種改良して超能力に目覚めさせた所で、わたくし|達《たち》に一体どんな変化があると思ってますのよ」 「どんなって。貴女、分かってないの? もしもヒト以外のモノに超能力が宿せるとしたら、私達だって|空間移動《テレポート》系能力者なんて怪物にならずに済んだじゃない。そもそも私達は、こんな厄険な能力を持たなくても良かったはずなのに———」 「|馬鹿馬鹿《ばかばか》しい、と切り捨ててあげますわね。たとえ今からどれほどの可能性が出てきた所で、すでにわたくし達が能力者になってしまっている事に何の変化がありますの、と申しているんてすよ、わたくしは」 「……、」 「もしも貴女が、これからの子供達のために可能性を追求しているのなら、わたくしは素直に感動の涙を流したでしょうね。けど、すでに能力者になってしまったわたくし達に、|他《ほか》の可能任を提示した所で何になりますの?」  大体、と白井は前置きする。  テーブルの|隙間《すきま》から宙を泳いでいた手が、がっしりと床を|掴《っか》む。 「能力が人を傷つける、なんていう言い草がすでに負け犬してま寸わよ。わたくしならその力を使って崩れた橋の修復が済むまで、橋渡しの役割でも|担《にな》ってあげます。地下街に生き埋めにされた人々を地上までエスコートしてご覧にいれますわ。力を存分に振るいたければ勝手に振るえば良いんですの。振るう方向さえ間違えなければ[#「振るう方向さえ間違えなければ」に傍点]」  みしり、とテーブルの山がわずかに揺れた。  |白井黒子《しらいくろこ》は、傷だらけの全身に力を込めるために奥歯を|噛《か》み|締《し》めて、 「わたくしから見れば、|貴女《あなた》の寝言など|屁理屈《へりくつ》にもなりませんの。力が怖い? 傷をつけるから欲しくない? 口ではそう言いながら! 人にこんな|怪我《けが》を負わせたのはどこの馬鹿ですのよ!! 自分|達《たち》の行いが正しいか|否《いな》か知りたければわたくしの傷を見なさい! これがその答えてすわ!!」  ぐらぐらと、少女を押し|潰《つぶ》す無数のテーブルが揺らぐ。少女の手足が床を|噛《か》む。全身の筋肉を振るい、傷口から血が|溢《あふ》れるのも構わず全力を注ぐ。 「危険な能力を持っていれば、危険に思われると本気で信じていますの? 大切な能力を持っていれば、大切に扱ってもらえると真剣に考えていますの? 馬鹿ですの貴女は! わたくしやお姉様が、そんな楽な方法で今の場所に立っているなんて思ってんじゃないですわ!! みんな努力して、頑張って、自分の持てる力で何ができるか必死に考えて行動して! それを認めてもらってようやく居場所を作れているんですのよ!!」  ぐらぐらと、ぐらぐらと、テーブルの山が大きく|震《ふる》える。  白井黒子は己の上にのしかかる重圧を振り払うために、さらに力を加え、 「何なら表を走っているお姉様を見てきなさい! その気になって|超電磁砲《レールガン》を本気で発動させれば、こんな問題なんて一分で解決できるあの人が! それでも血の惨劇で幕を閉じるのは嫌だからという理由だけで最短の解決法を自分から捨てて!! わざわざその身を危険にさらし!! 味方であるわたくしばかりか、敵である貴女まで救いたいなんて馬鹿な事を真剣に思っているからこそ、わたくしはあの人をお姉様とお呼びしているんですのよ!!」  ぐらぐらという音が、がらがらという|轟音《ごうおん》に変わる。  崩れていく。  あれだけ少女を上から押さえつけていた重しが、崩れていく。 「結局貴女の言い草は、自分が特別な才能を持っ能力者で周りは凡俗なんていう、見下し精神丸出しの汚い逃げでしかありませんわ! 今からその腐った性根を|叩《たた》き直して差し上げますの。この凡俗なわたくしに倒される事で、存分に自分の凡俗ぶりを自覚しなさい! そして今からでも凡俗な貴女を凡俗な世界に帰して差し上げますわよ!!」  白井黒予は立ち上がった。  開いた傷口から溢れる血で服も体もベタベタに汚して。その手で無造作に背の高いフロアランプを|掴《つか》んで、ぶら下げて。だらりと下がった手には、もはや|空間移動《テレポート》の力など宿されていな い。  だが。  それがどうしたと。  宿る能力などに関係なくお前は倒すと言わんばかりの形相で。  素晴らしい能力があるから敵を倒しているのではなく。  力強い理由があるからこそ立ち上がっていると無言で告げて。  |白井黒子《しらいくろこ》は、構わず進む。  前へ。  一歩、二歩、三歩と。  足取りはふらふらで、自分のバランスもまともに保っていられず、フロアランプだって構える事もできずに引きずっているだけなのに。  それでも、あまりの気迫に|結標《むすじめ》の体が後ろへ移動してしまう。  ひ、と結標|淡希《あわき》の口が動いた。  白井は、強い。  能力の有無を問わず、そんなものとは別の次元で、根本的に、強い。  結標淡希の体が、|袖《そで》の片方が破れたブレザーを胸元にかき寄せた状態で、床に腰をつけたまま後ろへ下がろうとする。その身に宿る|座標移動《ムーブポイント》を使えばもっと効率良く動けるはずなのに、彼女はそんな事も忘れている。|焦《あせ》りと恐怖で計算式の組み上げができないのだ。その目はもはや|他《ほか》の現実など映さず、ただゆっくりと歩いてくる白井黒子のみに固定されている。  ———負ける。  結標淡希は、根拠もなしに漠然と思う。  ———負ける。理屈じゃない。これは、絶対負ける。  白井黒子はすでに彼女の目の前まで歩いてきていた。床に腰をつけたまま頭上を見上げると、それこそ見下すように白井は結標を|睨《にら》みつけている。  白井の手がゆっくりと上がる。  金属バットのように|掴《つか》まれたフロアランプが、ふらふらとツインテールの頭上へと持ち上げられる。  それは立派な凶器だ。  いかに結標が|座標移動《ムーブポイント》の使い手とはいえ、その体は単なる女子高生のものなのだから。  カラン、という小さな音。  気がつけば、結標の手の中にあった軍用ライトが床に落ちていた。  負ける、と結標は思う。  結標淡希という|座標移動《ムーブポイント》能力者では、白井黒子という|空間移動《テレポート》能力者には絶対勝てないと。  しかし。  しかし。  しかし。  思えば、|白井黒子《しらいくろこ》は最初から一つの|懸念《けねん》をしておくべきだったかもしれない。  能力者だからと言って、武器は能力一つだとは限らないという事を。  外部組織の男|達《たち》と接触していた時点で、気づくべきだったかもしれない。  彼らと協力しているという事は、彼らの武器を預かっている可能性もあるのではないかと[#「彼らの武器を預かっている可能性もあるのではないかと」に傍点]。  ズドン!! という爆発音が聞こえた。 白井黒子は、両手でフロアランプを頭上へ持ち上げたまま———つまり、ある意味で無防備に体をさらしたまま———ゆっくりと自分の腹を見る。  赤黒い穴が制服の腹に空いており、そこから奇妙な色の液体がこぼれている。彼女の背後、夜景を映すウィンドウが、一歩遅れて粉々に砕け散る。  冷房の効果が|薄《うす》れ、生温かい夜の外気が入り込んでくる。  ぐらり、と白井の体が後ろへ揺れた。  フロアランプの重さに負けたという感じで、彼女の体は大きく床へ倒れていった。 「は」  かちかちと右手を|震《ふる》わせながら、|結標淡希《むすじめあわき》は笑った。  その手の中にある|拳銃《けんじゆう》からは、真っ白な煙がゆらりと上へ漂っていた。 「は、は」  結標淡希は、向かってくる白井黒子を|撃退《げきたい》する事ができた。  しかし彼女は、同時に認めてしまった。  能力など関係ないと。  今まで|誰《だれ》かを苦しめていたのは、こんな怪物みたいな能力があったから仕方がなかったと思っていた。しかし、|座標移動《ムーブポイント》の力なんて関係なかった。結標淡希は能力がなくても他人を傷つけられると。結局悪いのは自分の能力ではなく、それを操っていた自分自身なのだと。 (結局。悪いのは……)  結標の唇が乾く。舌が乾く。|喉《のど》が渇く。放ったはずの声が口の外に出ない。  だからこそ、彼女は無言の|沈黙《ちんもく》のままに結論を出す。  |全《すべ》ての元凶は。  自分の周りで、今まで誰かが傷ついたのは。  目の前に飛び散った、赤色の原因は。  己の不幸を能力のせいにして安心していた、自分の弱さにあったのだと。  結標淡希は、思い出す。  自分と同じ志を持っていたと信じていた能力者達。怪物のような自分の力に脅え、本当にその力を持つ必要があったのか、それを求めるために戦っていた仲間|達《たち》。建設途中のビルでは、|御坂美琴《みさかみこと》の|雷撃《らいげき》から|結標《むすじめ》を守るため、自ら盾になるとまで進言してくれた人々。  結標は、自分が彼らと同じ人間だと信じていた。  信じていたのに、答えは違った。  自分は。  彼らを|騙《だま》して、彼らと同じ居場所に立っているだけに過ぎなかった。 『|残骸《レムナント》』を使って『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』を手に入れても、自分達の知らない能力の可能性について調べても、|全《すべ》てが結標の思った通りに計画が進んだ所で。  結標|淡希《あわき》の根本的な部分は、もはや永遠に変わらない。  彼女が人を傷つける人間であるという事は、永遠に。 「は、ァ……ァ、がっ。ガァァァああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!?」  両手で頭を抱え、結標は|仰《の》け反って絶叫する。  |掴《つか》んでいたブレザーなどかなぐり捨て。裸の上半身が|露《あらわ》になる事など頭の中になく。  |拳銃《けんじゆう》の引き金に人差し指を当てたまま、いつ暴発するかもしれないのに、そんな簡単な事にも気が回っていないかのように頭を|掻《か》き|雀《むし》る。叫び、|吼《ほ》え、顔面の筋肉を存分に|歪《ゆが》ませて、腹の底に|溜《た》まった物を全て吐き出そうとするように。  パカァン!! という|轟音《ごうおん》が|炸裂《さくれつ》した。  座り込んだまま髪を掻き宅る結標が、勢いで引き金を引いてしまったのだ。偶然、上を向いていた銃口から火花が散り、|天井《てんじよう》に鉛弾が飛ぶ。突き刺さらずに跳ね返った弾丸が床に転がっていた軍用ライトを真ん中から、くの字に折り曲げ、|弾《はじ》き飛ばした。しかし、結標はもうそん な些細なものなど目に映していない。 「が、あァ!! あ、あ、あ、ああああああああああああァァああああああああああああああああああああああああああああああああァァあああ!!」  結標は|歪《ゆが》んだ|獣《けもの》のような顔で|白井《しらい》に銃口を向ける。  が、引き金を引いても、銃の内部スプリングが跳ね返す独特の感触はしなかった。スカン、と空気を引くような間の抜けた感覚だけが指に残る。 「ひっ、あ。あ、あ?」  結標は首をひねる。  右手に目をやれば、銃を握っているだけの形で、肝心の銃が手の中にない。  コン、という軽い音が遠くで聞こえた。  一五メートルほど横A[いの床に、府突に拳銃が落ちた。  |座標移動《ムーブポイント》。  もちろん、結標淡希は拳銃を転移させようと考えていなかった。そして、考えていなかったのに勝手に飛んだ[#「考えていなかったのに勝手に飛んだ」に傍点]。その|意《も》味を、|結標《むすじめ》がほんの少しだけ思いを巡らせようとした|瞬間《しゆんかん》、  彼女の能力が、暴発した、  ゴッ!!という|轟音《ごうおん》。  結標の半径五メートル内にあった|椅子《いす》が、テーブルが、ナイフが、フォークが、観葉植物がメニュー表が紙ナプキンが食器皿がキャリーケースが、まとめて吹っ飛ばされた。結標を中心点にして、|綺麗《きれい》に円を描くように様々な物体が空間を越えて転移される。ちょうどそのサークル上にあったテーブルや椅子は、転移してきた物体に|噛《か》み|潰《つぶ》されるように砕けてさらなる爆音を|奏《かな》でる。|空間移動《テレポート》能力者は同系統の能力者を転移できない。この法則がなければ|白井《しらい》もサークル上に吹き飛ばされていたかもしれない。 「……、」  結標は奇妙に無表情なまま、人差し指を軽く手前に引く。  その|一瞬《いつしゆん》で|拳銃《けんじゆう》は彼女の手元に戻ったが、銃身の真ん中をスプーンが貫通していた。どうやら拳銃が転移した後に、さらにその上にスプーンが移動したらしい。|素人目《しろうとめ》で見ても、もう使い物にならない事が分かる。  見れば、結標を取り囲むサークル上では、今も|嵐《あらし》のように様々な物体が移動・転移を繰り返 している。その過程で物体と物体が重なり、突き破り、次々と|破壊《はかい》されて、その破片がなお|嵐《あらし》を作り続ける。  とにかく、使えないものは使えない。|結標《むすじめ》は|苛立《いらだ》ちと共に、安全装置も掛けずに銃を横合いへ投げ捨てた。バカン! という爆発音と共に銃が内部から破裂し、破片が辺りに飛び散ったが、結標はもはやそちらを見ない。  結標を取り囲んでいたサークル型の嵐が、ピタリと|止《や》む。  今まで転移を繰り返していた様々な物体とその破片が、一斉に動きを止めてガシャンと床に落ちる。 「殺す……」  低く|捻《うな》るような、|歪《ゆが》んだ声。  じりじりと、炎で|灸《あぶ》った肉から脂が|染《し》み出るように、結標の胸に汗が浮き出て伝っていく。 「絶対殺す! |貴女《あなた》だけは、貴女だけはッ!! よくも、この私を壊してくれたわね[#「この私を壊してくれたわね」に傍点]!!| 貴女がいなければ、私はまだどうにでもなったのに!!」  そのふざけた言い分に、|白井《しらい》は倒れたまま|薄《うす》く笑う。  首でも絞めようというのか、結標は|憤怒《ふんぬ》の形相で白井の上へ|覆《おお》い|被《かぶ》さろうとした。が、ふと彼女は顔を上げた。 「ハッ、あはは!! がっかりね、白井さん!」  遠くから|騒《さわ》ぎを聞きつけた|警備員《アンチスキル》のパトカーのサイレンが聞こえてくる。 「|邪魔《じやま》が入った、とは言わないわよ。私は何があっても貴女を殺す。離れた場所にいたって、私は貴女を仕留められるのだから。不出来な貴女と違って[#「不出来な貴女と違って」に傍点]、優秀な私なら[#「優秀な私なら」に傍点]」  結標は舌打ちし、よろよろと立ち上がりながら、 「……一〇〇〇キログラム以上は体に|障《さわ》ると|開発官《デベロツパー》から止められているけど、私の|座標移動《ムーブポイント》の最大重量は四五二〇キログラム。逃げながらでもここへ|叩《たた》き込めるわ。貴女はもちろん、このビルだって巻き込んで|倒壊《とうかい》させられるでしょうね」結標は低い低い声で、「うふ、ぶち|壊《こわ》してあげる。貴女が私を壊したのだから、私もしっかりお返ししてあげるわね、白井さん。このビ ルごとまとめて押し|潰《つぶ》したら、貴女の体はどこまで形を崩してしまうのかしらね」  結標の声に、対する返事はない。  それこそ死人のように|天井《てんじよう》を見上げる白井を見て、結標は床に|唾《つば》を吐いた。それから辺りを見回し、|袖《そで》が片方破れたブレザーを拾って羽織り、続いて取っ手の壊れたキャリーケースを見 つけて、 「あら……。まだ貴女に必要だったんですの、それ?」 「!」  声に、そちらを振り返れば、白井|黒子《くろこ》が笑っていた。  これだけボロボロに傷つけられた状況で、それでも絶対に屈しないとばかりに、唇を皮肉の形に|歪《ゆが》めて。  |結標《むすじめ》は思い切り|白井《しらい》の|脇腹《わきばら》を|蹴飛《けと》ばした。血を|撒《ま》いて転がる少女に目もくれず、結標は血走った目でキャリーケースを|掴《つか》む。もはや目的と手段は一致しておらず、結果と未来にすら目を向けていない。  ぐちゃぐちゃの表情のまま、結標|淡希《あわき》はキャリーケースと共に|虚空《こくう》へ消えた。  対して、白井|黒子《くろこ》はもはや|空間移動《テレポート》を使えない。  このままここにいれば、遠からず結標の|攻撃《こうげき》が|襲《おそ》いかかる。  最大重量四五二〇キログラム。  フルでその能力を発揮すれば本人の体にも被害が出るとの事だったが、それと引き換えにこのフロアごと白井の体を圧殺できる。それどころか、この一フロアが|崩壊《ほうかい》すれば、ダルマ落としに失敗したように、ビル全体が倒れてしまうだろう。  逃げなければ。  |誰《だれ》でも分かる判断なのに、白井は指先一本動かせない。 (お、ねえ、さま)  少女の唇が、声なき声を虚空へ放つ。  思いを届かせるには、あまりに距離が遠すぎた。      3  その料理店の中は散々だった。窓に面した巨大なウィンドウを|叩《たた》き割られ、整然と並べられたテーブルを引きずり倒され、客の逃げ足にメニューを|踏《ふ》まれ、食器は割れて床に落ち、辺りには血が飛び散って、しまいには傷だらけの少女が床に転がっている。客も店員もおらず、白々しい照明と、場違いに|緩《ゆる》やかなフレンチポップスの有線放送だけが場を支配していた。冷房は窓を割られた事で完全に機能を果たしていない。 「……っつ」  血まみれの白井黒子は、倒れたまま指先に力を込めた。ほんのわずかに、動く。だが、それだけだ。腕は動かない。足は動かない。立ち上がる事も歩いてここから立ち去る事もできない。腕を使って|這《は》っていく事すらできない。|朦朧《もうろう》とする頭では|空間移動《テレポート》も使えない。  手詰まりだ、と彼女は思う。  結標淡希はすでにここから逃げ出した。が、おそらく一定以上の距離を稼いではいない。|座標移動《ムーブポイント》を使った逃亡に、直線的な距離や時問はあまり重要視されない。道路の流れや壁の厚さを無視できるという特権を使い、いかに自分の足跡を遮断しながら逃げるかが焦点となるのだ。  その上、結標は極端に自分の体を転移させる事に恐怖を覚えるクセがある。 移動先には吟味に吟味を重ねるだろう。少しでも|跳躍《ちようやく》の回数を減らせるように。だから今はどこか手近な所に隠れて、安全に安全に安全に逃げ切れるルートを構築しているはずだ。  そして彼女は宣言した。  |白井黒子《しらいくろこ》は絶対に殺す、と。最大重量四五二〇キログラムのその力を駆使して、死にかけの少女を完全に圧死させてみせる、と。  それがいつやってくるものかは分からない。  五秒後か、五分後か。五時間後や五日後はないと思うが。  ともあれ、ここから逃げなければ白井は終わりだ。 (最悪、ですの……)  血のついた髪はべたついて、|頬《ほお》を伝って口の中に入る。 (無残、ですわね。敵を残し、処刑を待って、その上で愚かにも相手を活性化のみならず暴走までさせて。白井黒子は一体どれだけの方々に頭を下げれば許されるんですのよ)  頭を下げるべき相手として、彼女は真っ先に一人の少女を思い浮かべる。  |御坂美琴《みさかみこと》。  別に小さい|頃《ころ》からの|幼馴染《おさななじ》みだとか、家族ぐるみで付き合いがあるとか、そういう事情はない。彼女と知り合ったのは|常盤台《ときわだい》中学に入ってから……つまり今年の四月からだし、そこに特別な取り決めがあった訳でもない。最初は本当にたまたま学校が同じで、たまたま同じ建物の中で顔を合わせるような関係でしかなかった。  ただ、それだけで思い知らされたのだ。  同じ学校で時たま顔を合わせるだけの接触点しかなくても、十分過ぎるほどに。  教えられたのは簡単な事ばかりだ。  |礼儀《れいぎ》とは、自分を飾るのではなく、相手に|安《あんど》堵を抱かせるためのものだと知った。  作法とは、相手に押し付けるのではなく、自分から導いてあげるものだと知った。  教養とは、見せびらかすためではなく、相手の悩みを聞くためのものだと知った。  誇りとは、自分のためではなく、相手を守る時に初めて得られるものだと知った。  別に白井はそれらを口うるさく一方的に説教された訳ではない。  ただ、見ていれば分かる。  そういう風に扱われれば、嫌でも自分の小ささが身に|染《し》みる。一見、乱暴で雑に見える美琴の行いは、実はそうした基本事項を|全《すべ》て理解した上で形を崩しているだけに過ぎない。路上のケンカにすら『|決闘の流儀《フラームダルグ》』を代表とした、様々な戦いの作法を組んでいる節がある。上っ|面《つら》だけを|真似《まね》て土台が分かっていない自分とは大違いだ、と白井は今でも思う。  彼女なら。  御坂美琴なら。  きっと、こんなヘマはしないだろう、と白井は確信している。身勝手で、図々しくて、恩着せがましい|蚊帳《かや》の外からの意見に過ぎないけど、|白井《しらい》は思う。あの|超電磁砲《レールガン》なら、この程度の 危機は危険の内にも入らない。ニコニコ笑って現場へ真正面から|突撃《とつげき》し、相手に反撃の暇も与んず一気に制圧して、そのまま無傷で現場から戻ってくるだろう。  こんなピンチだってものともせずに。  どれだけの状況であっても決して後ろには退かず。  白井の下へと|真《ま》っ|直《す》ぐ駆けつけて。傷だらけになった彼女を背負って。|慰《なぐさ》めの言葉でも放っしくれながら。ギリギリのタイミングで建物から飛び出して。  ここで倒れている、|馬鹿《ばか》な後輩を助けてくれるかもしれない。  白井|黒子《くろこ》は|御坂美琴《みさかみこと》の名前と顔を思い浮かべる。  それから小さく笑って、 (ま、いくら|完壁《かんぺき》なお姉様だからって、高望みが過ぎますわよね)  一人よがりな|自嘲《じちよサつ》と共に、空間がミシリと音を立てた。まるでガラスの窓に圧力をかけているような音だ。来る、と白井は漠然と思った。これまでの|空間移動《テレポート》や|座標移動《ムーブポイント》ではないような現象だが、白井には何となく分かった。  おそらくもう一〇秒もしない内に、四五二〇キログラムもの重圧が空間を越えて|襲《おそ》いかかっしくる。  破れた窓の外からは、車の排気音など、相変わらずの|喧騒《けんそう》が聞こえていた。それがこの部屋を包む不気味な静寂———場違いなフレンチポップスの有線放送は流れているが、逆に寒気を演出させるだけだ———とのギャップに、彼女は思わず笑いそうになってしまう。  死にたくない、と白井はぼんやりと思った。  そして同時に、彼女は届かぬと分かっていながらも、御坂美琴に向かって強く願う。  今も|騒《さわ》ぎを聞きつけてこちらへ向かっているかもしれない|超電磁砲《レールガン》へ。 (どうか……)  白井は一人では身動きが取れない。  だが、|誰《だれ》かが支えとなればここから移動する事もできる。  このタイミングで救いが来れば。  まさに使い古されたヒーローのように、ギリギリのタイミングで誰かが来れば。 (どうか……)  ツインテールの少女はそれこそ祈る。  最後の最後で、終わりの}歩手前のこの|瞬間《しゆんかん》に。 (少しでも、ここから離れて。くれぐれも巻き込まれたりしないでくださいですの。お姉様)  白井黒子は、切に願う。  もう|結標淡希《むすじめあわき》からの|攻撃《こうげき》は|避《さ》けられない。そしてそれは間もなく開始される。この状況で|誰《だれ》かが駆けつけた所で、助かる見込みは少ない。仮に|美琴《みこと》がこの場面を見たら、真っ先に倒れた|白井《しらい》の元へ駆け寄るだろう。空間を渡る攻撃が来る事など知らず。もしも彼女の勘が|冴《さ》えて攻撃を見切り、白井を連れて建物の外へ連れ出そうとした所で、果たして間に合うか。最悪の場合、ここで二人とも|倒壊《とうかい》に巻き込まれて死ゐ可能性だって低くはない。  なのに、  それなのに、 (あ……)  聞こえてくる。  カンカン、と。無人となったフロアの出口から、誰かの足音が上がってく「る。エレベーターを使うのももどかしいと感じたのか、おそらくは非常階段を駆け上がっている足音が。  いや、足音だけではない。  バチバチと。まるで電気の火花を散らすような音も|一緒《いつしよ》に|響《ひび》いてくる。 (ああ……ッ!!)  |駄目《だめ》だ、と白井は顔を真っ青にする。  白井は足音の主を止めようにも、手足はもう動かせない。  だからこそ、彼女は口を動かす。 「駄目、ですわ! こちらへは、来ないでくださいですの!」  このタイミングで駆けつけてきた、その|完壁《かんぺき》ぶりに涙をこぼしそうになりながら。|喉《のど》を|震《ふる》わせ、体に残った体力を|全《すべ》て注ぎ込んで、最後の声を。 「これからここに特殊な攻撃が加わります! このフロアへ来るのは危険ですの! いえ、このビルから離れてください! きっと建物ごと崩壊してしまいますわ!!」  白井|黒子《くろこ》は血まみれの床の上で叫ぶ。  ミシミシギシギシと彼女の周りの空間が|軋《きし》む。結標の攻撃の予兆か、それとも単なる合図か。 「……ッ!?」  まずい、と白井は思う。|空間移動《テレポート》で店内へ突入したため、彼女は建物の詳しい構造や順路を把握していないが、少なくとも足音の主は、残り十数秒でこのフロアに|辿《たど》り着けない。直線上の距離だけならともかく、階段や通路をグルリと回れば、それだけ距離と時間を消費する羽目 になるのだから、絶対に無理だ。  結標が、具体的にどんな物体をここへ転移させてくるのかは分からない。  が、四五二〇キログラム———それだけの重量が一気に|襲《おそ》いかかれば、このフロアどころか建物全体を倒壊させてしまう。内部にいる、全ての者を巻き込んで。  それは、駄目だ。  それだけは、絶対に駄目だ。 「逃、げ……ッ!!」  |白井《しらい》はほとんど泣き出しそうな顔で、最後に叫ぼうとしたが、間に合わない。間に合うはずがない。|瞬間《しゆんかん》、グワッと、部屋中の空気が|歪《ゆが》んだ。まるで魚眼レンズ越しに景色を見ているような現象は、おそらく何かが空間を裂き始めた余波で、フロアの空気の圧縮率が変動し光を屈折させているからだ。  |攻撃《こうげき》が始まる。 「……ッ!!」  白井は歯を食いしばる。全身に力を込める。  しかし、それでも手足に力は入らない。指先一本動かない。能力も全く機能しない。悔しい、と白井|黒子《くろこ》は思う。心の底から思う。自分にもっと力があれば。軽々と|空間移動《テレポート》をこなし、自分も、自分を助けに来てくれた人も、簡単にこの建物の外へ|避難《ひなん》させる事ができたはずなのに。それ以前に、|結標淡希《むすじめあわき》に負けさえしなければ、そもそもこんな危機に|陥《おちい》る必要すらなかったはずなのに。  思った所で、力は宿らない。  この現実は、そんなに上手くできていない。 (お、ねえ、さま……ッ!!)  白井黒子は、それでも弱りきった体へ、最後の力を込める。そうした所で、余計に傷口が開くぐらいの変化しか生み出せない事が分かっていても、力を抜く事だけは絶対に許さない。同時に彼女は、最後に祈る。何かの|馬鹿《ばか》みたいな奇跡でも起こって、たった一人の、強い、しかしそれだけのただの少女が助かりますように、と。  ゴッ!! と。  その時、祈りが通じたように、オレンジ色の直線が、床から|天井《てんじよう》へと突き抜けた。  それは音速の三倍で|撃《う》ち出された金属片の一撃。  斜めに撃ち出された針のように細いその熱線は、もはや人間の視力では速度を感じ取れない。レーザー光のように、始まりも終わりも確認できず、ただ直線としてそこに存在するだけだ。あまりの速度に残像すら空間に焼きつける。  ハッ、と白井は一瞬それを|呆《ほう》けたように眺めて。  直後、ズン!! と建物全体が|響《ひび》き渡った。オレンジ色のラインを導火線にするように、|破壊《はかい》の|嵐《あらし》が巻き起こった。床には直径ニメートルもの風穴が開き、その直線上に存在したあらゆる物体を丸々|薙《な》ぎ払い、吹き飛ばし、破壊の限りを尽くしていく。床がわずかに斜めに|傾《かし》いだ気がした。階下で|瓦礫《がれき》の崩れるような音が響く。  |超電磁砲《レールガン》。  その能力と、それを持った一人の少女の名を思い浮かべ、|白井《しらい》は倒れたまま頭を巡らせる。 「こんだけ風通しを良くしてやりゃあ[#「こんだけ風通しを良くしてやりゃあ」に傍点]、まだ間に合うでしょ」  あまりにも聞き慣れた、彼女の声。  |焦《あせ》りもなく、恐れもなく、迷いすらなく。  この程度の状況など問題にもならないとでも告げるような余裕を見せて。 「悔しいけど、私の出番はここまで。後はアンタの拳で[#「後はアンタの拳で」に傍点]、アイツを連れ戻してきなさい[#「アイツを連れ戻してきなさい」に傍点]!!」  その声に、白井はハッとする。  首を巡らせた先で、彼女は見る。  |超電磁砲《レールガン》が空けた風穴、コンクリートの床を引き裂くトンネルの先から一人の少年が走ってくるのを。斜めに空けた風穴をなぞるように、天井の|瓦礫《がれき》と下フロアの机や|椅子《いす》を磁力で集めて積み上げた階段を駆け上がるようにやってくるその姿を。  本来の階段を使っても間に合わない。  だからこそ、本来の階段なんて使わない[#「本来の階段なんて使わない」に傍点]。  あまりにも|無茶《むちや》なショートカットを実行した少年の手に、武器はない。目に見えて何か|凄《すさ》まじい能力を持っている訳でもない。それでも彼は走る。明らかに異常な現象が起きているこのフロアの中へと。ただその右手の|拳《こぶし》を岩のように硬く握り|締《し》めて。  空間の|歪《ゆが》みは一秒未満で限界を迎え、内側から破裂する、  その|瞬間《しゆんかん》。向こうから飛び出てくるモノも見ないで少年は拳を振るった。  目の前にある異常———まるで幻想のような、強大でしかし現実味の欠ける|結標《むすじめ》の|一撃《いちげき》へ。  質量四五二〇キログラム。  その巨重をまとめて押し返す、凶暴なハンマーのように。  ドゴン!! と少年の拳と空間が激突する。  歯を食いしばる少年の拳は、しかし空間を無視して先まで突き抜けた。  奇怪な現象が起きた。  突然、鋼鉄を打ったような|轟音《ごうおん》が|響《ひび》いた。まるでたわんでいた空間そのものを、拳を使って平らに|叩《たた》き直すように。光の進行を歪めていた見えざる何かを、この場所から|殴《なぐ》って打ち飛ばすように。  三次元的ベクトルによる一一次元的特殊軸への直接的かつ強制的な干渉。計算式を|日頃《ひごろ》から意識している白井だからこそ、分かる。それは一方通行の道を強引に逆走するようなものだ。  あまりの不条理に白井|黒子《くろこ》が|呆然《ぼうぜん》としていると、その少年は、 「あー、遅れて悪かったな。いや今回は事情が良く|呑《の》み込めないまま突っ走っちまったから。途中で|美琴《みこと》と合流してなかったらどうにもならなかっただろうし———っつか、ちょっと待て! 何でお前はそこまでボロボロになってんだ!?」  まるで今、|白井《しらい》の状態に気づいたように、少年は慌てて駆け寄ってくる。 「|貴方《あなた》が、何で……。わたくしのために命を張ったんですの?」  白井は思わず|呟《つぶや》いた。これがあの空間のたわみを|叩《たた》いて直すなんてふざけた力技を成し遂げた者の姿とはとても思えない。  だから白井|黒子《くろこ》は、確認のためにも聞く。 「だって、わたくし|達《たち》はただの他人でしょう? たとえ、そんな力を持っていたとしても。どれだけ強力な力が手の中にあったとしても。何で、本気になれますの。どうして、迷わず突っ込んでこられますの?」  彼女の言葉に、少年は|一瞬《いつしゆん》だけキョトンとした顔をする。  それから、言った。 「何でとか、どうしてとかって言われてもな。ぶっちゃけた話、逃げるより立ち向かった方が手っ取り早いだろ。そりゃ、逃げる事でお前が助かるなら、迷わずそっちを選ぶけどさ」 「そんな、簡単な……問題じゃ、ないでしょう? 貴方、少しは怖いとか、思いませんでしたの?」  少年は、白井の言葉を聞いても揺らがない。  ためらいもせずに、彼は答える。 「まあ、怖いっちゃ怖いけど。ほら、それが約束だからな」  約束? と白井が繰り返すと、少年は周囲をグルリと見回した。何をやっているのかと思いきや、どうも近くに|誰《だれ》もいない事を確認しているらしい。彼はやがて、|内緒話《ないしよぱなし》をするような小さな声で、 「……そう、約束だ。|御坂美琴《みさかみこと》と彼女の周りの世界を守るってな。名前も知らない、キザでいじけ虫な野郎との約束なんだよ」  少年は苦く笑って、 「ちょっとばっかし遅れ気味になっちまったけど、一応お前に聞いとくよ。俺は今、そいつとの約束をちゃんと守れてるか[#「俺は今、そいつとの約束をちゃんと守れてるか」に傍点]?」  言葉に、白井は戸惑ったような顔をしたが、やがて頭を巡らせて周囲を見回した。  そして一点で止まる。  御坂美琴が、あの|超電磁砲《レールガン》が、|常盤台《ときわだい》中学のエースが、駆け寄ってくる。自分で空けた巨大な風穴をくぐって、傷だらけの後輩の下へと、今にも泣き出しそうな顔で。  白井黒子の目線の先には、彼女が一番守りたかった少女は無事に|佇《たたず》んでいる。 「……、ぇぇ、ちゃんと守れてますわ。半分ほどは[#「半分ほどは」に傍点]」  だから、彼女はそう答えた。 残りの半分は、現在キャリーケースを抱えて|座標移動《ムーブポイント》で逃亡中だ。 「そうか」  何かを|掴《つか》んでいるのだろう。少年は|白井《しらい》の言葉を深く言及せず、迷いなく|頷《うなず》いた。  そしてさらに告げる。 「それなら、今から残りの半分を果たしに行こう」 [#改ページ]    行間 四  |結標淡希《むすじめあわき》は安全なルートを|辿《たど》って学園都市の端までやって来ていた。  全身には貫通傷があり、裸の上半身に|袖《そで》が片方なくなった冬服のブレザーを着込んでいるが、ボタンはメチャクチャに掛け違えていて、しかもそんな事にすら気づけていない[#「しかもそんな事にすら気づけていない」に傍点]。無理な力の行使に全身の血管が表面に浮かび上がり、熱のある息の塊をひっきりなしに吐き出し続ける。何をどこから手をつけて良いかも分からないように視線はあちらこちらへとせわしくなく移動していて、口の中で何かをブツブツと|呟《つぶや》いていた。|緊張《きんちよう》によるものか顔中が汗まみれだった。軍用ライトを失ってからか、力の制御がどうも|大雑把《おおざつぱ》になっているような気もする。使い慣れた軍用ライトを手放した血まみれの指は、取っ手のないキャリーケースに触れていた。  彼女の脳裏に嫌な|記憶《きおく》が浮かぶ。  それは自分の能力で自分の体を転移させた後遺症のようなものだ。二年前の|時間割《カリキユラム》りの暴走事故。|鍵《かぎ》のかかった部屋の中へ自分の体を移動させる、という簡単なものだったが、結標は座標の計算を間違えた。足がちょうど壁に埋まる形で、体を転移してしまったのだ。  痛みはなかった。  だからこそ、結標は特に迷わず、壁に埋まった足を引っ張り、一息で壁の中から引き抜こうとした。してしまった[#「してしまった」に傍点]。その直後。  べりべりという音。  足の|皮膚《ひふ》が、壁の建材のギザギザになった断面に削られる感触。  激痛。  壁から引き抜かれた、ずるりと皮膚の消えた足[#「ずるりと皮膚の消えた足」に傍点]。  まるで。  まるで、オレンジの皮を|剥《む》いたような、ぷるぷるした水気のある柔らかい肉と、その上を網のように走る細かい血管と……。 (ぎ、ぎ、ぎぎ……ッ!!)  結標淡希は体をくの字に折る。腹の底から吐き気が|襲《おそ》いかかったが、かろうじて押さえつける。びくんびくんと背中が|震《ふる》えるのが分かる。ふらふらと動いていた足は、その吐き気をきっかけに、完全に止まってしまっていた。  吐き気が収まる。  しかし、一度止まった足は、次の一歩を|踏《ふ》み出そうとしない。 (なに、を……)  |結標淡希《むすじめあわき》は、もう何度目になるかも忘れた疑問を繰り返す。 (これから、私は、何をすれば……)  砕かれた心は、完全に目的を失っていた。そして喪失した精神は、かりそめでも良いからとにかく目的を持つ事で、心の破片をもう一度かき集めようとしていた。最初に目に留まったのは、やはりキャリーケースだ。もはやこれで何がしたかったのかは、思い出せない。とにかく外部組織にこれを渡すんだ、という手段だけが空回りしている。 (連絡……)  結標は小型の無線機を取り出す。 (連絡、しなきゃ。連絡、連絡。必要だから、しなくちゃ。あはは、私、今、みんなに必要だと思われてる事をちゃんとやってるんだわ……)  無線機の向こうから、聞き慣れた取引先の言葉が届いてきた。結標は子供のような笑みを浮かべながら通信を開始する。 「こちらA001よりMOOOへ。符号の確認の後、状況の報告に———」  結標はあらかじめ定められた通りのマニュアルに従って指示を出す。しかし、直後に激しい雑音が聞こえて結標は思わず無線機を体から遠ざけた。改めて耳を|澄《す》ますと、無線機の向こうから聞こえるのは銃声と怒号と絶叫だ。結標はマニュアルにない返答に|苛立《いらだ》ちながら、 「こちらA001よりMOOOへ。こちらA001からMOOOへ。こちら———って聞こえているんでしょう!! 何でさっきから応答しないのよ!!」  絶叫と共に無線機がミシミシと音を立てる。危うく無線機を握り|潰《つぶ》しかけた結標は、その向こうから情けない男の悲鳴を聞いた。それは外部組織の長だったはずの男の声だ。  無線機の向こうで銃声が|止《や》んだ。  情けない男とは別に、低めの女の声が聞こえてくる。 『自分の利益のために子供たぶらかせて安全席からご見物とは良いご身分じゃん? 私は子供に武器を向けない決まりを自分に課してるけど、子供のために武器を向ける事には迷わないじゃんよ』  ひぃ、という悲鳴と共に銃声が|炸裂《さくれつ》した。  無線機の向こうが静かになる。 『殺すと思うか、アホ。アンタがどれだけの子供|達《たち》をどう手なずけていたか、きちんと吐いてもらわなきゃその子達を助けられないじゃんか』  直後、無線機が荒い雑音しか吐かなくなった。何度ボタンを押しても、ダイヤルを回して微調整を繰り返しても、もう何の声も返ってこない。|誰《だれ》も連絡を必要としていない。 (あ、あ……。連絡、連絡しなきゃ。連絡しなきゃいけないのに! 何で、どうしよう? 目的、目的、目的がないと、私……ッ!!)  無線機を揺すっても|叩《たた》いても応答がない。|沈黙《ちんもく》に耐えられなくなったように結標は叫び、無線機を地面に|叩《たた》きつけた。細かいパーツがバラバラに散り、雑音が|止《や》んだ。今度こそ本当に応答がなくなってしまい、|結標淡希《むすじめあわき》は泣きそうな顔になる。  結標には、学園都市に戻るという選択肢は用意されていない。学園都市統括理事長にとって、『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』の重要度はそれほど高くない。むしろ『実験』が再開されれば一万もの|妹達《シスターズ》を利用した『計画』に|亀裂《きれつ》が走る。それは学園都市内部のみならず、科学サイドのみならず、もっともっと大きなレベルでの『世界』のパワーバランスにすら|影響《えいきよう》を与える事態になりかねないようだ。結標には、その『世界』の意味は理解できなかったが。 (どうしよう。どうしよう……。とりあえず外部組織の本部に戻ろうか。……それとも、|他《ほか》の組織にコンタクトを取ってみるのも手かもしれないわ。この中身なら欲しがる組織はいくらでもあるはずだろうし。そう、そうよ。やる事、やる事、やる事がいっぱい! 目的! 目的があれば私は|大丈夫《だいじようぶ》!)  |歪《ゆが》んだ笑みを浮かべたまま、ポロ切れのような衣服も気にせず結標はキャリーケースに手を置いて、それを押しながら再び歩き出そうとする。  と、その歩みを止める者がいた。  じゃり、という足音。  結標の行く先には一本の道がある。周囲をビルに囲まれた広い道だ。学園都市の外周で夜間は交通も少ないこの道には、現在車の影は全くない。まるで滑走路のような道路に、横から|誰《だれ》かが渡ってきた。  誰だ、とは思わない。  |邪魔《じやま》だ、と思った。それが何者であれ、邪魔をするなら叩き殺すとばかりに、結標は警戒もせずにズンズンと歩を進めていく。  その何者かは、片側三車線もある広い道の真ん中で、まるで結標の行く先を|塞《ふさ》ぐように立ち止まり、立ち塞がる。 その人影は、 「っつーかよォ」  狂ったように白く、歪んだように白く、|澱《よど》んだように白く、 「クローンどものネットワーク経由であのガキの元にいろンな情報が流れてきて、ソイツがあのガキども全体に|関《かか》わる事だっつーから仕方なく街に出てきてみりゃあよォ、一体何だァこりゃ? せっかく人が脳に電気流して|杖《つえ》までついて死にもの狂いでやってきたっつーのによォ。 大体、何が世界に二つとないチョーカー型電極だっつーの。あのクソ医者、間に合わせで試作品なンぞ渡してきやがって」  額やこめかみ、首筋に不自然な電極を|貼《は》り付けて、右手にはト字トンファーのような、長い棒 から横に取っ手がついたような現代的なデザインの杖をついて、 「ンで、せっかくここまでやってきて、よォやくこの|俺《おれ》にこンな思いさせてる|馬鹿《ばか》に出会えて、さァさァどンな愉快な|馬鹿《ばか》だと思ってみりゃあよォ……何だァこの馬鹿みてェな|三下《さんした》は!? オマエは|俺《おれ》を本気でナメてンのか!? こンなモンならノコノコ出てくるンじゃなかったぜ最初っから言えよ待ってンのは三下ですってまったく迷惑なンだよオマエみたいなの!!」  暗がりに|佇《たたず》むのは学園都市最強の|超能力者《レペル5》。  |闇《やみ》に浮かぶような、白く、白く、白い、本名不明の|一方通行《アクセラレータ》が、そこにいた。 「ひ……は……ッ!!」  その姿を見ただけで。  呼吸と心臓が、|一瞬《いつしゆん》、確実に止まった。 (あ、アイツは———)  |結標淡希《むすじめあわき》の肺が変な風に動く。息を吸っているのか吐いているのかも分からなくなる。それほどまでに頭がグチャグチャに混乱する。 (———アイツは!! 何で、だって、|駄目《だめ》よ! ち、超電磁砲だって|敵《かな》わない相手なんか、まともに相対できる訳ないでしようが……ッ!?)  散々目的を求めて空回りしていた彼女の心は、ここにきてようやくキャリーケース以上の、それこそ彼女の命運を分けるほどの明確な目的を手に入れた。 (……、ど、どど、どどどど、どうにか! どうにかしないと……ッ!!)  滑走路のように広い道路の真ん中に立ち|塞《ふさ》がる者を見て、|結標《むすじめ》は心の中でもう一度|頷《うなず》く。どうにかしないと。しかしそれは究極の問いとも言える。どうにかしないと。  あの|一方通行《アクセラレータ》が、何でこの場面で結標|淡希《あわき》なんかが出てくるのかと嘆いていたが、彼女にしてみればその|台詞《せりふ》はそっくり返してやりたい気分だった。  場違いにもほどがある。たかがこの程度の事件で、こんなちっぽけな能力者の下に出現するなんて|椀飯《おうばん》振る舞い過ぎる。スケールの違いで言うなら小さな子供のケンカを止めるために空爆を行って国ごと吹き飛ばすようなものだ。  結標の思考がメチャクチャになる。  |素人《しろうと》とプロのスポーツ選手が争う程度の差ではない。例えるなら、人間がジェット旅客機と綱引きをするようなものだ。どちらが勝つかなど論ずるまでもない。ジェット旅客機側が何もしなかった所で、人間側は一センチも動かせないだろう。  終わりだ。  もう終わりなのだ。  その事実を前に結標淡希は顔をグシャグシャに|歪《ゆが》めたが、  その時、 「……、知っているわ」  歪めた顔の筋肉を、丸めた紙を広げるように少しずつ元に戻して、 「私は知っている! そうよ、今の|貴方《あなた》に演算能力はない。かつての力なんてどこにもないわ! あるはずがないもの! 今の貴方はもはや最強の能力者でも何でもないのよ!!」  勝ち誇ったように結標は叫んだ。  それを見て、|闇《やみ》の先にいた|一方通行《アクセラレータ》は|呆《あき》れたように、 「哀れだなア、オマエ」  一拍おいて、ゆるりと風が吹くのを待って、 「本気で言ってンだとしたら、抱き|締《し》めたくなっちまうほど哀れだわ」 「ハハッ! 強がらなくても分かっているのよ! 私はあの人の近くにずっといた。だから学園都市の内情について少しは知識があるわ。|一方通行《アクセラレータ》、貴方は八月三一日にその名の由来とな るべき力を失っている。でしょう? でなければ、|何故《なぜ》貴方はさっきからそこに突っ立ったままなの? どうしてさっさと私を攻撃しないの? やらないんじゃなくてできないんでしょう[#「やらないんじゃなくてできないんでしょう」に傍点]。かつての名声を盾に、バッタリで私を追い詰めようとしたのかしら?」  |嘲《あざけ》るような宣告に、しかし白い入影はわずかに目を細くするだけ。  |舐《な》められた、と解釈した結標の目の下が、片方だけ引きつる。 「……ッ!! 何か言ったらどう! |黙《だま》るな気持ちが悪いのよ!!」  結標は叫ぶが、同時に胸の奥に妙な疑問が|湧《わ》く。  何か、違う。これは、資料にある|超能力者《レペル5》の特徴と一致しない気がする。 「オマエは本当に哀れだよ。イイか、今からオマエにたった一つの答えを教えてやる」  その人影は、暗がりの中で|緩《ゆる》く両手を左右に広げて、 「確かに|俺《おれ》はあの日、脳にダメージを負った。ツラ見りゃ分かる通り、今じゃ電極使って外部に演算任せてる身だ。あのクローンどもの電波の届かねェトコに入っちまったら演算補助もできねェし、回復した力なンざ元の半分あるか分っかンねェし、コイツのバッテリーはフル|戦闘《せんとう》で使えば一五分も|保《も》たねェよ——」  だがな、と|一方通行《アクセラレータ》は言葉を区切って、 「———俺が弱くなった所で[#「俺が弱くなった所で」に傍点]、別にオマエが強くなった訳じゃねェだろォがよ[#「別にオマエが強くなった訳じゃねェだろォがよ」に傍点]。あァ?」  ぐちゃり[#「ぐちゃり」に傍点]、と|歪《ゆが》んだような笑み。  ドン!! と彼の軸足が、思い切り地面を|踏《ふ》みつけた。  固い地盤が下から突き上げられたように|震動《しんどう》する。|一方通行《アクセラレータ》の身が低く沈む。彼の足を中心に、アスファルトの道路に放射状の|亀裂《きれつ》が走り回る。周囲のビルが|軋《きし》んだ音を立て、建物の骨格の歪みに耐え切れなくなったように大量の窓ガラスが砕け散って破片の雨をばら|撒《ま》いた。 (ば———か、な……ッ!?)  彼女は頭上を見上げる。『雨』はそれこそ大通りに面した|全《すべ》ての建物から降り注いでいる。|結標《むすじめ》の|座標移動《ムーブポイント》では逃げられない。あまりにも広範囲過ぎる。建物の中へ逃げ込むのも得策ではない。建物の構造を歪ませて窓を割っているのだ、内装がそのままの形を保っているとは思えない。万が一、崩れた壁と重なるように|座標移動《ムーブポイント》すれば生き埋めの出来上がりだ。 (だとすれば、逃げるべきは……上ッ!!)  結標はキャリーケースを|掴《っか》み、とっさに空中へ|座標移動《ムーブポイント》した。ガラスの雨を飛び越え、地上から数十メートルも離れた夜空へと。移動と同時に|凄《すさ》まじい吐き気が|襲《おそ》いかかり、どうにかそれを抑え込もうと努力する。落下が始まる前にどうにか別のビルの屋上へ連続移動できないかと、慣れない作業に必死で頭を働かせようとして、  頭が空白になった。  必死に組み上げた計算式が全部吹っ飛んだ。 「あはぎゃはっ! 無様なローアングルのサービスさらしてくれてアリガトウ!!」  ダゴン!!という爆音。砕けたアスファルトをさらに踏み|潰《つぶ》し、あの|一方通行《アクセラレータ》がロケットのように夜空を突き抜けた。脚力のベクトル変化だけではない。その背には、強大な暴風の竜巻のようなものが四つも接続されている。  結標の目には、それは|奇《く》しくも、天へと昇る天使に見えた。  地の底に落ちて、どこまでも汚れきった天使が、天上の楽園へ|牙《きば》を|剥《む》くような。  |一方通行《アクセラレータ》は途中にあるガラスの雨の層を食い破り、バキゴキと壮絶な音と共に|弾《はじ》き飛ばし、 もろともせずに突破する。その|皮膚《ひふ》に傷の一つもつけず、ただ|真《ま》っ|直《す》ぐに|結標淡希《むすじめあわき》の元へと砲 弾の|如《ごと》き速度で|跳躍《ちようやく》した。  その|拳《こぶし》はすでに握られている。  今の今まで彼を支えていたト字の|杖《つえ》が、まるで多段式ロケットの切り離し作業のように握り |潰《つぶ》されて宙に舞った。|悪魔《あくま》のような拳が、全身の速度と重さを抱えて結標淡希の顔面を|狙《ねら》う。 「……………………………………………………………………………………ッ!!!???」  もはやこの状況で冷静になどなれるはずがない。  計算式の組み上げを放棄した彼女は、とっさにキャリーケースで自分の体を守ろうとする。が、ちっぽけな防御は、|一方通行《アクセラレータ》の拳が突き刺さった|瞬間《しゆんかん》に粉々に砕けて散った。キャリーケースの外装が砕け、|耐衝撃《たいしようげき》素材の中綿が舞い飛び、厳重に固定されていた『中身』が無数の部品と破片に変わり果て、結標の手元から桜|吹雪《ふぶき》のように失われる。 「悪りイが、こっから先[#「こっから先」に傍点]は一方通行だ」その超能力者は、口の端を思い切り|歪《ゆが》め、「侵入は禁止ってなァ! 大人しく|尻尾《しつぽ》ォ巻きつつ泣いて無様に元の居場所へ引き返しやがれェ!!」  ひゅう、と結標の|喉《のど》がおかしな音を立てる。  その顔面に、キャリーケースなど無視して、硬く握り|締《し》めた拳が壮絶な速度で突撃する。  ゴギン!! という|轟音《ごうおん》。  結標淡希の体はさらに斜め上方へと高く高く吹き上げられる。ビルの屋上の縁へ斜め下から突き上げるように激突すると、彼女の体は|墜落《ついらく》防止用の金網のフェンスに激突し、フェンスの支柱を何本かブチブチと根元から引き抜き、まるでボールがサッカーゴールのネットに勢い良く突き刺さるようにして、ようやくその体が動きを止めた。  その身に宿していた運動量を|全《すペ》て吐き出した|一方通行《アクセラレータ》はピタリと動きを止め、重力に引かれて暗い地面へと再び落下し始めた。  彼は地上を見ない。  落ちながら、結標が激突した屋上をゆっくりと見上げ、口の中で|呟《つぶや》く。 「確かにこのザマ[#「このザマ」に傍点]じゃ、学園都市最強は引退かもしンねェが」  静かに、目を細めて。 「それでも、|俺《おれ》はあのガキの前じゃ最強を名乗り続ける事に決めてンだよ。くそったれが」  |誰《だれ》ともなしに言った|台詞《せりふ》は夜風に流され、彼は地上へと向かって行った。 [#改ページ]    終 章 それぞれの日々 One_Place,One_scene.  翌日。午前中に|上条当麻《かみじようとうま》は学校に連絡を入れて遅れる事を告げると、とある病院にやってきていた。|治療《ちりよう》のためではない。今回の彼は本当にどこも|怪我《けが》を負っていない。つまりは|白井黒子《しらいくろこ》のお見舞いのためだ。  と、そんな彼は、病室から少し離れた所にある自販機コーナーと喫煙所を合わせたような談話スペースに突っ立っていた。そのほっぺたには真っ赤な手形がついている。訪ねに行って病室のドアを開けたら白井が着替えていたのだ。  病室から|叩《たた》き出された上条は、おそらく女性の着替えには少し時間がかかるだろうと推測すると、横でムカムカしているインデックスを引き連れて、同じ病院にいる|御坂《みさか》妹の方を訪ねてみようという話になった。  御坂妹は現在、|他《ほか》の病室にいる。本来治療中であった彼女にとって、昨日の運動は結構危険なものだったらしい。御坂妹は、普通の病院ではまず見かけないような、SF的な強化ガラスのカプセルに満たされた透明な液体の中でふわふわと浮いていた。  ちなみにカプセルの中の御坂妹は意識があるらしく、上条を見て無表情なままぺこりと頭を下げたが、そんな彼女は全裸に白いシールのような電極を|貼《は》り付けただけのとんでもない格好をしていて、そこではインデックスに思い切り後頭部を|噛《か》み付かれた(当の御坂妹は全く気にしていなかった)。  どれぐらいの強さで噛まれたかと言うと、病室の隅っこに置いてあったペット用のケージ(特殊な物で、動物の毛や雑菌が外に漏れない仕組みになっているらしい)の中で丸まっていた黒猫が弱肉強食の本能を呼び起こし、巨大|地震《じしん》の前触れのように不自然なぐらいビビって暴れ出したほどである。午前中から|踏《ふ》んだり|蹴《け》ったりの一日だった。  そんなこんなで。  上条とインデックスは、二つの病室を訪ねてから追い返されるように、再び談話スペースに舞い戻ってきた訳である。 「……、不幸だ。ただでさえ日常的に不幸な上条さんに不幸フィーバー(確率変動)がやってきましたよ! 今なら|怒濤《どとう》の九連不幸とかやってきても|驚《おどろ》かねーぞ|神様《バーカ》!!」  様々な人からボコボコにされた上条は、疲れた顔で『|黒蜜堂《くろみつどう》』の一個一四〇〇円もする(しかしサイズは大きくもない)フルーツゼリーの入った紙袋を片手に|提《さ》げて、|隣《となり》にいるインデックスが紙袋に食いつかないだろうかイヤいくら何でもお見舞い品に食いつくほど常識知らずじゃないよなでも心配だなあ、などと考え事をしている。  そんな彼の|隣《となり》に立っているインデックスは、実は洋菓子より自販機の当たりルーレットのランプに興味を引かれつつも、 「で、『つりーなんとか』とか『れむなんと』とかは知らないけど、結局とうまは『それなら、今から残りの半分を果たしに行こう』とか格好良さげな|台詞《せりふ》を吐いておきながらあの後何の収穫もなかったんだね……」 「うっ……。いや|白井《しらい》に教えてもらった予測ルートは|辿《たど》ってみたさ。そしたら何か街の一角の窓ガラスが全部粉々になっててキャリーケースっぽい|残骸《ざんがい》が散らばってて『中身』らしきものが|木《こ》っ|端微塵《ぱみじん》になってて屋上にはボッコボコにされた女の子が引っかかってて———どこの|誰《だれ》がやったか知らないけどありがとうって感じだぞ」 「とうま、とうま。|普段《ふだん》はあんまり使わない日本語で言うね。この役立たず」 「いえーい! 言われると思ったよちくしょう!! っつかどこのどいつだ人の獲物を勝手に横取りして何にも言わずに立ち去っていくなんてよぉ! 一体どこまでお|馬鹿《ばか》に格好つければ気が済むってんだ!!」 「……正直、とうまみたいなのは一人いれば十分だと思うかも」  いえーい! という叫びが午前中の病院に|響《ひび》き渡る。 「なンか表がうるっせェなァ。 一体どこのお祭り野郎が|騒《さわ》いでンだァ?」  |一方通行《アクセラレータ》は壁越しに聞こえてくる声に|眉《まゆ》をひそめた。何かどこかで聞いた事があるような声なのだが気のせいだろう。個室とはいえそれほど広くない部屋の中、ポツンと置かれたベッドの上で|一方通行《アクセラレータ》は|布団《ふとん》を|被《かぶ》り直す。異常に早く髪が伸びたり傷口が|塞《ふさ》がったり夜空へ|大跳躍《だいちようやく》したりしているから気づきにくいが、一般人なら自分の足で立てないほどの|怪我《けが》を負っているのだ。  ベッドには、それを横切るようにテーブルが設置してある。ちょうど道路の上を歩道橋がまたいでいるような配置だ。ベッドの上で食事をするためのテーブルなのだが、今はその上に見た目一〇歳ぐらいの少女が寝そべって足をパタパタ振っていた。かつては裸に毛布一枚というとんでもない格好をしていた彼女だが、今は子供服ブランドが発売している空色のキャミソールを着ている。ジャージの女が持ってきた服の一着だ。 「それで結局、ヨミカワが『外』に出て『|科学結社《Asociacion de cienia》』とかいう外部組織をぶっ|潰《つぶ》してきたんだって、ってミサカはミサカはミサカ|達《たち》のネットワークを通じて得た情報を発表してみたり。何か前の|天井亜雄《あまいあお》とも接触あった組織とかで、だから『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』とかにも詳しかったんだって、ってミサカはミサカは臨場感|溢《あふ》れるタッチでお伝えしてみる」 「あァそォ……」 「それでヨミカワは帰ってきた時に|徹夜《てつや》っぽい疲れの色を目の下にくっきり残してた訳、ってミサカはミサカはにじみ出るお肌の年齢を思い出してしみじみしてみたり。……あれ、なんか |普段《ふだん》とは想像がつかないほどあなたのテンションが下がってるかも、ってミサカはミサカは首をひねってみる」 「……、朝方帰ってきて眠みインだからちょっと後にしてろ」 「あーっ! あなたに眠気は鬼門なのかもってミサカはミサカは目覚ましミサカにモードチェンジしてみたり! ほらほら朝だよあと二時間でお昼だよってミサカはミサカは足をバタバタ振り回して|駄《だだ》々っ子っぼく眠気に負けつつある意識に|覚醒《かくせい》を促してみる!!」 「……」  コイッは過去に何か|俺《おれ》が眠った事で不利益でも|被《こうむ》った経験でもあるんだろうか、と疑問に思いつつ|一方通行《アクセラレータ》は|布団《ふとん》を|被《かぶ》って耳を|塞《ふさ》ぐ。電極を通してミサカネットワークに演算を任せればある程度の力は使えるが、普段のそれは一般的な言語・計算の能力と紫外線など最低限の必須反射項目だけにしか割り当てていない。無駄に試作品のバッテリーを消耗させる事になるからだ。 「っつか、ガキは気楽でイイよなアまったくよォ。こちとら死にかけ脳シェイク状態で病院抜け出して、後始末含めて朝方まで作業してたっつーのにそっちは冷房|利《き》いた部屋ン中でベッドに|潜《もぐ》ってグースカ寝てりゃ結果ァ出てるってンだから———ごがっ。他方どうか教義によってそこで標的の上に俺の言語能力を取り上げないでくださいです[#「他方どうか教義によってそこで標的の上に俺の言語能力を取り上げないでくださいです」に傍点]っつってンだろ!!」  途中から言葉が崩れたまま|一方通行《アクセラレータ》は怒鳴る。  ミサカネットワークの方が|一方通行《アクセラレータ》の言語野の代理演算を中断したのだ。  ちなみに本人は『人の言語能力をそっちの都合で取り上げんな』と言っているつもりである。 「ミサカはそんな|罵署雑言《ばりぞうごん》を聞くために代理演算している訳じゃないもん、ってミサカはミサカは|可愛《かわい》らしく反抗してみたり———って、ぶわっ!? そんな掛け布団でミサカの体をくるんで一体どうするつもりなの、ってミサカはミサカはちょっぴり危機感を抱いてみる!!」  一方、その|隣《となり》の個室では。 「さ、さあ、ささささささ、さあお姉様。この|白井黒子《しらいくろこ》にウサギさんカットのリンゴを食べさせる至福の時間がやって参りましたのよ! うふふ、うふふふふ!!」 「うるさい|黙《だま》れ何で昨日の今日でもうそんなに活力|溢《あふ》れてんのよ黒子!————、いや溢れてない!? 溢れてないのに気力だけでベッドから|這《は》い出ようとすんなアンタ本当に死ぬわよ!!」  ニッコニコの笑顔と共に|愛《いと》しのお姉様へ迫ろうとする|満身創疲《まんしんそうい》の白井黒子を、|御坂美琴《みさかみこと》はどうにかベッドに押し戻して掛け布団をかける。 「あ、ああ……。お姉様の手で乱暴にベッドに押し倒されるこの感触。や、やはり体を張って肉弾戦で取り組んだのは正解でしたの。世界が、世界が今とても輝いて見えますわ!」 「アンタ絶対安静って言葉の意味知ってんの!?」 「大人しくして欲しければウサギさんリンゴを食べさせてくださいですの。そう言えぱさつき病室に来てたあの殿方だって家庭的な女の子の方が好みではありませんの?」 「……。そ、そう、なのかな。ねえ|黒子《くろこ》、アンタ本当にそう思う?」 「って超適当に言ってみたワードになんてウブな反応してますのお姉様は! やっぱり、やっはり先ほどわたくしの着替え中に病室に入ってきた、あの野郎がお相手でしたのね!! あの若造がァああああ!!」  これだけの|怪我《けが》を負って何でこんな元気にバッタンバッタン跳ね回っているんだコイツは、と|美琴《みこと》は|驚異《きようい》の生命力を前に|愕然《がぐぜん》とする。これでは何のために見舞いに来たのかその理由すら忘れそうになってしまう。また、怪我をして満足に動けない白井の代わりに、着替えの件でとある少年に平手打ち(適度なビリビリ入り)をぶち当てなくても良かったのではないかと彼女はちょっと後悔した。あの|結標淡希《むすじめあわき》は母校の|霧《きりが》ヶ|丘《おか》女学院では留学扱いにされた事後報告など、せんなのはもうどうでも良さそうだ。  ふと会話のリズムが途切れる。  わずかに静寂が訪れる。  温めていた空気の熱が冷えていく。  閉じた口を再び開くのには、想像以上に力が必要だった。  美琴はその原因を知っている。  自分の後輩の体を、何ヶ所も貫いた重い傷。  結局、彼女はまた巻き込んだのだ。 |妹達《シスターズ》に、あの少年に、そして今度はただの後輩まで。 「何となく、ですの」  そんな美琴の思考を断ち切るように、|白井《しらい》はベッドの上から声を掛けた。  え? と顔を上げる美琴に、白井は笑いかけ、 「何となく、気づかされましたわ。あの夜立っていた場所が、お姉様の戦っている世界なんですのね。わたくしには、何が何だかサッパリな事ばかりでしたわ。特に最後にお姉様|達《たち》が駆けつけてきた後なんて、|馬鹿馬鹿《ばかばか》しくて途中で何度も思考が止まりましたもの」  小さく小さく白井は笑って、わずかに力を抜く。 「きっと今のわたくしでは、そこに立つ事もできませんの。無理についていこうとすれば、結果はこのザマですわ」 「黒子……」  美琴はわずかに痛みを受けたような顔をする。  しかしそれはすぐに新たな表情に隠される。彼女はそれを隠せる人間だ。だからこそ|脆《もろ》いのだ、というのを白井は良く知っているが。 「お姉様。もしも|貴女《あなた》が自分の力のせいでわたくしを事件に巻き込んだと思っているのなら、それは大間違いですのよ」 「え?」 「当たり前でしょう。わたくしが弱いのはわたくしのせいですのよ。そこにどうしてお姉様が|関《かか》わるんですの? |馬鹿《ばか》にしないでくださいな。わたくしは自分の負った責任ぐらいは自分で果たせる人間ですのよ。|貴女《あなた》に背負ってもらっては、わたくしの誇りはズタズタですの」  |白井黒子《しらいくろこ》はつまらなそうな声で、 「だからお姉様は笑ってくださいな。失敗してそれでも無事に帰ってこれた後輩を見て、何やってんだこのヘタクソと指を指して爆笑すれば良いんですの。わたくしはその楽しい思い出が|糧《かて》としてあれば、もう一度立ち上がろうと思えるのですから」  それに、と白井は心の中で付け加える。 (あくまでも、『今の』わたくしには、ですわ。わたくしは、白井黒子は、こんな所で立ち止まる気など毛頭ありませんもの。ですからお姉様、しばしのむ待ちを。目的地を知った黒子は速いですわよ)  この場所の居心地の良さを知り、だからこそ、彼女は戦場に戻る覚悟を決める。  静かに、すぐそこにいる少女には決して知られぬように。  こうして、白井黒子は自分の身の程を知った。  そうして、自分の手では届かぬ世界がある事も理解した。  しかしだからこそ、彼女は|諦《あきら》めるのではなく、さらに上へと手を伸ばそうとする。  決して、高い位置へのし上がりたいのではなく。  ただ一つ、今ここにある場所を守りたいが|故《ゆえ》に。 [#改ページ]    あとがき  一冊ずつ順調に読み進めている|貴方《あなた》はお久しぶり。  八冊セットでお買い上げ頂いた貴方は初めまして。  |鎌池和馬《かまちかずま》です。  さて、八巻です。テーマはそのものずばり超能力ですね。今回はある意味本当に変化球で、明確な男子キャラクターは|上条当麻《かみじようとうま》ただ一人しか登場しません。おや、と思った貴方はとりあえずその疑問は保留という方向で。あっちは|一筋縄《ひとすじなわ》ではいかないのです。  内容の中には、三巻や五巻などの一連の事件の中で解決できていなかった聞題などを一部取り上げています。 一見するとオカルトとは無縁の話に思えたかもしれませんが、今回の敵役、|結標淡希《むすじめあわき》が抱いた疑念はオカルト的な要素を多分に含んでいたと鎌池は考えています。  |御坂美琴《みさかみこと》と御坂妹の間では|何故《なぜ》、発現した能力に違いが出たのか。|他《ほか》の動植物には現象の観測や分析、そこから派生する能力の使用はできないのか。そして、そもそも現象の観測・分析とは一体何なのか。話の構成や主人公の視点などの都合により、こういった問題は今回の巻では明かせませんでしたが、それらの|謎《なぞ》はまた別の機会に、という訳で。  イラストの|灰村《はいむら》さんと担当の|三木《みき》さんには絶大の感謝を。お二人がいてくださったおかげで、本書は無事にお店の本棚に並ぶ事ができました。  そして本書を手に取っていただいた皆様に絶対の感謝を。貴方がいてくださったおかげで、本書は無事に貴方の本棚に並ぶ事ができました。  それでは、貴方が頭の片隅に本書の存在を覚えていただいた事に感謝して、  できれば次巻の存在も覚えておいていただければ光栄ですと思いつつ、  今回は、この辺りで筆を置かせていただきます。  ……御坂美琴。今回こそいっぱい出る予定だったんですが[#地付き]鎌池和馬 [#改ページ] [#改ページ] とある魔術の禁書目録8 鎌池和馬 発 行 2006年1月25日 初版発行 著 者 鎌池和馬 発行者 久木敏行 発行所 株式会礼メディアワークス 平成十八年十月三十一日 入力・校正 にゃ?